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滝野川の陣 秩父党コンツェルンのメンバー勢揃い! 吾妻鏡の今風景38

 都電荒川線…ではなく、今ではさくらトラムっていうんだそうですが。とにかく都電に乗って王子で降り、金剛寺まで歩く。

 治承四年十月、頼朝軍勢が下総から墨田川を渡ったのち、どこへ進んだかというと、武蔵国滝野川城。滝野川にかかる松橋付近が頼朝布陣の地。現在、金剛寺のある場所。
 滝野川とは、石神井川の下流の名称、なんと、石神井川、こんなところへ流れていたなんて。北区は学区外だったのでよくわかりませんでした。私は第五学区出身、墨田川にかかる橋の名前は言えるが、北区の川はわからない。でも今では、学校群はもう消滅しているようですが。
 現在、このあたりは音無親水公園として整備されており、アップダウンの多い地形で、散歩に最適な親水公園。








 滝野川にはすでに豊島氏、江戸氏、そして畠山氏、河越氏などが顔をそろえていただろう。いずれも秩父党のメンバー。
 平将門の従兄弟の忠頼のところに将門の娘の春姫が嫁ぎ、その2人の間に生まれた息子が忠常、将恒、頼尊、忠常は反乱を起こした人(延長八年六月十八日生まれ)、将恒の息子の平武基が前九年の役に従軍して秩父別当に就任したところから、秩父氏(秩父党)の歴史がはじまる。
 武基の弟の武常(たけつね)は豊島庄(豊島郷)を治めて豊島氏となる。豊島氏と秩父氏は兄弟関係で、秩父党コンツェルンの総帥が武基なら、副総帥が武常。

 (中里の平塚神社の縁起によれば)、武常の息子が豊島太郎近義。その弟が常家、その息子が(たぶん)豊島康家(としまやすいえ)、その息子が豊島清元。清元は秩父重弘の娘を妻とし、その息子のひとりが(葛西)三郎清重となる。
 
 秩父氏は、武基の息子の武綱が継ぎ、その息子が重綱。さらにその息子たちは、秩父太郎重弘(しげひろ)、河越次郎重隆(しげたか)、高山三郎重遠(しげとお)、江戸四郎重継(しげつぐ)。四人兄弟は、重綱の重の字を受け継ぎ、以後、重の文字が一族に受け継がれ、秩父党のメンバーの証となった。
 秩父重弘の息子が、畠山重能(はたけやましげよし)と小山田有重(おやまだありしげ)(注・町田市小山田に居住)。

 滝野川に、秩父党コンツェルンのメンバー、重(しげ)ちゃんズが勢揃い、治承四年十月。

 なお、武綱の息子の重家が河崎(川崎)氏、その息子の重国の代になって武蔵国豊嶋郡谷盛(現在の渋谷の金王八幡あたり)から、相模国高座郡渋谷(神奈川県高座渋谷あたり)までを治めていたので、たぶん、河崎氏も渋谷氏も滝野川に列席していたのではないだろうか。

 池袋から東武東上線で川越へ。もしくはR254で川越へ。あるいは荒川を遡って畠山(深谷市畠山)、そして秩父へ。さらには、渋谷へ、藤沢へ。関東に広がる秩父党コンツェルン!

 豊島氏の館は、滝野川ではなく南北線の王子神谷駅近くにあった。(注。清光寺が館跡であるとされる。神谷王子駅から、新田橋のほうへと行く。今度、行ってみよう。)

 秩父が秩父党の本拠地なら、王子が副都心といったような位置付けになるのか。
 ところで、北区王子のほくとぴあ展望台は眺めがよい。関東一円を一望、秩父の山々、荒川、筑波山、東京湾、もしかして厚木の大山?、もちろん富士山も見える。この眺めは、秩父党の総帥にこそふさわしく、ほくとぴあというより、あたかも秩父党タワー。









 さて、王子から飛鳥山を通って中里まで歩く。造幣局の前を通り、上中里の平塚神社へ。平塚神社は、山手線の線路の山側の高台にある。山手線の東側の湿地帯を見渡す高台。
 
 上中里の平塚神社は、豊島近義が平塚城を築いた場所。後三年の役の帰路、源義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)の三兄弟がこの館に立ち寄った。のちに義家の鎧を埋めた「鎧塚」を城の守り本尊とし、この地に三兄弟を祀り、「鎧塚」を「平塚」と呼んだことに因んで、「平塚三所大明神」とした。現在、神社の裏手にある塚が「鎧塚」で、立ち入り禁止の聖域となっている。

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