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ウルフスレイヤー義仲誕生の地、鎌形 吾妻鏡の今風景25

源(木曾)義仲は、頼朝の従兄弟にあたる。頼朝の父の義朝と、義仲の父の義賢(よしかた)が母違いの兄弟なので。
太郎義朝の母は公家の藤原忠清の娘、次郎義賢の母は六条大夫重俊の娘。いずれも京にいて朝廷に関連していた家の娘であった。そして、次男の義賢のほうが、出来はよかった。なにせ就職先が東宮警護。しかもその長官である帯刀先生(たちはきせんじょう)として活躍。先生(せんせい)ではなく、先生(せんじょう)と読みます。そう、源三郎義広(みなもとのさぶろうよしひろ)も、この職についていた。今でいうなら、皇太子警護のSPのリーダーみたいな職か。

これに対し、長男の義朝は、都での出世は望めず、関東に下って、大暴れしていた。が、のちに義賢は、部下の不始末のせいで職を追われ、上野国多胡に赴任し、秩父重隆(秩父党)の娘を娶って武蔵国比企郡大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)の館に移り住むことになる。
そして、秩父党は、義賢派と義朝派に分裂して争うこととなり、久寿2年(1155年)、義賢の甥の源義平(悪源太)が大蔵館を襲撃し、秩父重隆と義賢を討ちとる。つまり、義賢は甥に討ち取られてしまう。これが大蔵合戦。


義賢の次男の駒王丸はその時2歳。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は、中原兼遠によって信濃国木曽谷(長野県木曽郡木曽町)に逃れて育ったとされる。しかし『源平盛衰記』によれば、それは信濃国安曇郡木曽であったとする。安曇郡木曽とは、現在の長野県東筑摩郡朝日村(塩尻の西側の山中)で、地図を見る限りでは、現在の塩尻市の端っこ。だから、塩尻次郎とか名乗ってもらったほうがわかりやすかったような気がしますが。
諏訪大社に伝わる伝承では、のちに下社の宮司、金刺盛澄に預けられて修行したとされ、だったら諏訪次郎というのもあったのだろうか。
 
ところで、義賢の長男の源仲家は、大蔵合戦の時には母と共に京にいて(つまり、この母子は都落ちしなかったと思われる)、源頼政に保護されてその養子となり、朝廷の官職につくことになる。が、以仁王のクーデター発覚に伴って頼政たちと共に戦い、宇治平等院のあたりで戦死。
 
その以仁王の宣旨は、義仲のところにも当然届いていた。
平家方の武将、笠原頼直が木曽へ進軍したのが治承四年(1180年)九月。頼朝が安房へと逃れ、和田義盛を上総広常のところへと遣わしていた頃。
笠原は諏訪氏の分家で、伊那のあたりが本拠地であった。頼朝が反旗を翻したことをきっかけに、源氏方の勢力を追い詰めようと考えたのだろう。
 
さて、義仲は、子供の頃から逞しく、秀でていたと言い伝えられる。義仲の幼少時、愛馬が狼に食い殺されてしまうという事件が起こり、それに怒った義仲は、狼に報復をする。食いちぎられた愛馬の死体の中に身を隠し、夜、馬の死体の残りを食いに来た狼を退治。この時、数え七歳。つまり、満年齢は6歳ぐらい。就学前の幼稚園児が狼(ニホンオオカミ)を、倒しちゃったという話になる。となると称号は・・・当然、ウルフスレイヤーで決まりでしょう! 
 
秩父にある三峰神社は、ニホンオオカミを祀っている神社として有名であるが、その昔、ヤマトタケルノミコトが、甲斐国から上野国に向かう途中に三峯山に登った時、ヤマトタケルノミコトを道案内したのがニホンオオカミ(山犬)であったとして、イザナギ、イザナミと共に、三峰山に祀られた。
甲斐、上野だけではなく、信濃の山中にも、もちろんニホンオオカミはいた。ニホンオオカミは、その強さゆえに崇拝されており、憑き物落しの呪術には、ニホンオオカミの頭蓋骨! しかし、ニホンオオカミは、現在では絶滅し、現在、出回っているニホンオオカミの頭蓋骨のほとんどはニセモノですが。最近、鹿が増えすぎたから、オオカミを山に放とう、などと言っている人たちがいますが、オオカミは猛獣。少なくとも、幼稚園児が素手で倒せるものではありませんのでね。


で、義仲が生まれた場所というのが、現在の嵐山町。大蔵館跡が大蔵神社になっているが、義仲が生まれたのは、大蔵館跡からちょっと離れた鎌形で、鎌形八幡神社があり、境内には義仲誕生の産湯と伝わる清水がある。
東部東上線の武蔵嵐山駅が最寄り駅。車ならR254を走って、小川バイパスと、東松山ICの中間ぐらい。嵐山カントリークラブをめざすとわかりやすい。もしも出生地の名前をそのまま名乗っていたとするなら、鎌形義仲となっていたのかもしれない。


  (秋月さやか)

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