優雅な挨拶(7)

 正直ぼくには、恋が何たるか分からない。これまで出会った女性には、大した感情を抱かなかった。だから、真っ直ぐに恋をしている幸助がうらやましい。我を忘れるほどの愛慕に溺れる感覚。そんなものを体験することがこの先ぼくにもあるのだろうか。
 出勤の道中、昨夜の出来事をぼんやりと思い出しながら、自転車を漕いでいた。ふと、あの青年のことをふいに思い出した。三ツ矢誠一くん。彼も誰かに恋をしたりするのであろうか。そんな取り留めもないことを考えているうち、職場に到着した。
 市役所の鐘が、始業を知らせる。それを聞いて、図書館の玄関を開け放つ。「おはようございます」と口々に言いながら、利用者の人たちが返却する本を抱えて入ってくる。ぼくは1日の中で、この瞬間がいちばんすきだ。先刻まで静まりかえっていた図書館のエントランスが、たちまち賑やかになる。
 今朝は同僚が貸し出し処理をしてくれている。一方ぼくは、館長室に呼び出されている。図書館新聞の打ち合わせがしたいとのこと。
「草介くんはどんな詩を嗜むのかね。」
のっけから館長に訊ねられた。
「わたしは萩原朔太郎がすきで、何度もくり返し読んでます。」
そう言うと、館長は手をぽんと打った。
「『青猫』は読んだかね?」
館長の口からその詩集の名前が出るとは思わなかったので、びっくりした。
「はい、わたしがいちばん影響を受けた詩集です。」
「おお!そうか!!それはいい。」
 館長もどうやら、萩原朔太郎や宮澤賢治の詩などを高く評価しているらしい。意外なところで、共感できることがありうれしくなる。
「とりあえず、君に詩の投稿欄を任せるから、すきにやってくれたまえ。」
 まずは新聞で、詩の投稿を募ることになった。選考や講評はそれからの話しだから、あまり焦る必要はない。ただ、募集の文面を書かなくてはいけない。
「最終的には冊子として編纂して、我が図書館に配架しようと考えている。」
館長は頼もしそうに、そう言った。
「喜んで務めさせていただきます!」
 図書館の通常業務に戻り、身近な同僚に報告した。良かったじゃないかと口々に言ってくれる。ぼくの表情も自然と和らいでいたらしい。
「草介でもそんな顔するんだな。」
いちばん親しい同僚が悪戯っぽく指摘した。
「まあね、馬鹿にするない。」

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