1月12日(日)

日曜日。スタバ。結局スタバにいる。結局スタバだ。

いろいろなことを思いながらただ時間だけが過ぎていく。だがそんなことよりコーヒーの飲みすぎで気分が悪い。飲みすぎとか言ってるが実際はマグカップの半分くらいしか飲んでいない。美味しいと思ったのなんて一口目か二口目くらいだけで、あとはただぬるくて苦い水を啜っている。自分でもなんで飲んでいるのか分からない。飲むべきじゃなかった。だが飲むべきじゃなくても飲んでしまうときというのが人生にはある。酒と同じだ。

やりたいことはいろいろあるような気がするが、ほんとうにやりたいことって何だろうと考えると、そんなことは何もないのだった。ほんとうのことというのはいつ考えても分からない。何がほんとうで何がうそか。そんなことに興味はない。楽しめればそれでいい。いや楽しいかどうかさえどうでもいいのかもしれない。何がどうでもよくて、何がどうでもよくないか。分からない。どうでもよくないものなんてあるのだろうか。

昨夜見た夢に、亡くなった祖母が出てきた。祖母は一人で庭にいた。庭は広く、しかし四方を壁に閉ざされていた。見上げても空はない。空のあるべきはずのところにはただ暗闇が広がっていた。夜だったからだろうか。だがそもそもその世界に夜とか昼とかあるのだろうかという感じがした。閉じた小さな世界で祖母は幸福そうだった。庭に生い茂る植物を愛でながらそこに暮らしていた。庭の空気は湿っていて、暗いはずなのに地面は明るく日が差していた。

新年になり、もう一月の半分が過ぎようとしている。今年はどんな年になるだろう。三月末に台湾旅行を、四月からはまた別の通信制学校に通いはじめることを予定している。新しいことをやっているというより、昔の自分に戻ろうとしている。昔の自分が望んだものを、もう一度望もうとしている。体感的にはそういう感じに近い。

変わっていくものと変わらないものがある。何が変わって、何が変わらないのか。分からない。二十代の頃にやろうとしてできなかったことが、三十代になってできるようになっている。しかし、当時やりたいと思っていたのと同じようにそう思えているかといえば、そういうわけでもない。だってもう三十一歳である。今年で三十二歳。自分自身の年齢なんて普段はまったく意識しないけれど、他人が三十二歳だといえば、内心「けっこう歳いってるんだな」と思ってしまうところがある。だがそんなことを言ったらそう言っているおれ自身がまずけっこう歳いってるのだ。

おまえけっこう歳いってるんだぜなんて気安く言ってくるやつは良い意味でも悪い意味でも周りにいない。それは、周囲がおれを尊重してくれているということなのか、それともある一定以上の距離から近付かないようにしているということなのか。もちろん私だってそんなことは他人に言わない。それほど他人に興味がないということなのかもしれない。じゃあ何に興味があるのだろう。

あれほど他人の視線を気にして自意識に雁字搦めになっていた私が、いまや他人に興味がないと言ってしまう。それは成長なのだろうか。感性が鈍くなっているだけのような気もする。自分自身のことが見えなくなっているだけのような。だが、こうも思う。自分自身のことが見えているヤツなんているのか。ただ慎ましくしていればそれでいいのか。それだけで分をわきまえているということになるのか。

十代の頃、ブラックでコーヒーを飲む人間の神経が信じられなかった。なぜあんな苦い液体を飲む必要があるのか。たまに缶コーヒーを買って飲んでいる同級生を見かけたりなんかすると、大人ぶっているだけで格好悪いヤツだなと内心見下していた。

三十を超えた今、ブラックでコーヒーを飲んでいるおれがいる。それは、大人ぶって格好つけているだけなのか。習慣によって馴らされているだけなのか。少なくとも味を楽しんでいるわけではない。苦味がどうとか酸味がなんだとか知ったようなことを言うつもりはない。違いのわかる大人なんかではない。違いなんて分からない。大人になれば分かるなんて言い方で子どもを騙すような大人にはなりたくない。とはいえ飲んだ後に気持ち悪くならないコーヒーというのが世の中に存在することは知っている。スタバのコーヒーを飲むと気持ち悪くなることも知っている。知ったうえで飲んでいる。まずいと思いながら吐き気を催しながら飲んでいる。なぜだろう。分からない。

吐くことと表現することは似ている。綺麗なだけのものなんて見ていてもつまらない。吐くこと。吐いているかどうかということ。表現することは楽しいときもあるが、そればかりでもない。

上辺を綺麗に整えることにばかり慣れていく。それは社会に馴らされていくということでもある。でもそれは生きるということの半分でしかない。もう半分には汚くて、臭くて、怒ったり泣いたりみっともなく取り乱したりするような世界が広がっている。子どもが生きているのはそういう世界だ。それは普段は隠されている。でも誰の心の中にだって子どもはいるのだ。子どもが大人のフリをして生きている世界が社会なんだという気がする。