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何をやるかより、どうやるか

タイトル通りなのだけど、「何をやるかより、どうやるか」の方が大切なのではないか、と、思うことがよくある。というか、さっき思った。「大切」という言葉だけだと、ぼやんとしているかもしれない。言い換えると、「何をやるにしても、やり方次第で楽しくもなるし、つまらなくもなる」というようなことを言おうとしていた。

例えば、料理。あくまでも私の場合の話だけれど、決められた手順・レシピに従って、決められた順序通りに料理をするというのが、私は苦手だ。苦手、というか、退屈だなあ、と思う。

逆に、何の手順もなく、粘土をこねて遊ぶみたいに自由に食材を切ったり、思い付くまま適当に調味料を足していったりするのは、楽しい。気楽だから、楽しいのだろうか。

化学の実験じゃあないんだから、厳密に食材を計量したり加熱時間を計測したりして、完成された料理の再現を目指さなくてもいいんじゃないか。むしろ適当に、自分の手が勝手に動くのに従って作ったやり方で、そのときその瞬間、一回限りの料理の味を楽しんだらいいんじゃないのか。良かれ悪しかれ、私はすぐにそういう風に思ってしまう(真逆の人もいるのではないかと思う)。

もちろん手順通りにやるのが楽しい場合もある。でも私は往々にして、「決められた通りにやらなければならない」となった途端に退屈になる。強制されるのがイヤなのかもしれない。「どうしてそれが正解と言えるのか」と疑う余地がなくなるのが窮屈なのかもしれない。なにより、退屈だと思う。

この退屈さは致命的で、「だったらやらなくていいや」と思うほどに、退屈だと感じる。目に見えてつまらないと感じるものに、わざわざ取り掛かろうという気は起こらない。結果、私の場合は、やらなくなっていってしまう。

「退屈」だとか「つまらない」だとかっていうと、ちょっと尻を叩いたら消し飛んだり、ちょっと我慢すれば収まったりするような、弱い感情のようにも思われるかもしれないけれど、実際に人の行動を制限したりストップさせたりするのだから、十分強い。というか、人間を内側から支配する、かなり強い気持ちだと言うこともできるかもしれない。ここでいう人間っていうのは、要するに私自身のことを言っているのだけれど。


なんとなく話が錯綜してきた。なるべくならもっと、具体的に書きたいと思うのだけど、なんでか、上手く書けない。

ということは、もしかしたら、今まで私が書いてきたことは、私のただの妄想だったのかもしれない。もう随分と夜も深まってきたし、なんだか、そんな気がしてきた。

でも「何をやるかより、どうやるか」の方が大事、ということは、さっきたしかに思ったのだよなあ。あのときの私は何が言いたかったのだろう。

ところで、ここまで書いてきたような流れだと「気軽に・適当に・即興的にやる=楽しい」「慎重に・真剣に・計画的にやる=つまらない」みたいに書いてしまっているけれど、必ずしもそう言いたいわけでもなかった。話をひっくり返すようだけど、「適当にやってるから、つまらない」場合もあれば、「真剣にやるから、楽しい」場合もある。このさじ加減はかなり微妙で、具体的な状況によるというかなんというか、謎が多い。今の自分には、まだ上手く言葉にできないことなのかもしれない。

というわけで、今回はそういうことにして、まったく何が言いたいのかわからない文章になってしまったけれど、今回はこの辺りで止めたい。一見つまらなそうなことでも、捉え方を変えれば自分なりに楽しめるようになる、ということはたまにあるし、逆に、やっぱり全く気が進まないというときもある。この違いってなんなのか。そういうことについて、眠れなくて、ぼんやり考えていた。