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「すずめの戸締まり」を観たあとに書いたこと

誰かがやらないといけないと思ったんです。

テントを運ぶのも、水を運ぶのも、掃除するのも、ボールを片付けるのも、声を張り上げるのも、揉め事をどうにかするのも。

東京も揺れて、原発も爆発して。
「彰、どうにかならない?」って連絡があって。
自分のこと、家族のこと、やらなくちゃいけないことがたくさんある中で、誰かがやらないといけなかった。
やりたいとか、やりたくないとかは超越してて、やらないわけにはいかなかったし、他に選択肢はなかった。

学校をつくる、という時だってそう。
誰かがやらないといけないんだ、ってずっと思ってたから。

ウクライナで戦争が始まった時だってそう。
誰かがやらないといけないと思ったんです。

僕じゃなきゃダメだ、とか、僕だったらできる、とか、社会を変えるために、とか、これまで思ったことないです。
今も思ってないです。
社会なんか俺が何かしたところで何も変わらんよ。
俺は「なんかやっとるな」と横目で通り過ぎる人たちの背中を目で追うだけです。

そういう現実を感じながら3.11の時だって、学校づくりだって、WDRACだって、誰かがやらなくちゃいけないと思ってた。
誰かが戸を締めなくちゃいけない。

僕は、何者でも無いのに。
何かに秀でてるわけでも、草太みたいな特別な能力だってもちろん無い。

けど、地震で、津波で、戦争で人が死んで、学校の子供が死んで、そのひとつひとつの死の「無念」と「儚さ」が身体中を貫いていくんです。

痛い、すごく。
いちいち痛い。

俺のせいじゃない、俺のせいでみんな死んでいくわけじゃ無いけど、災害で、戦争で、自殺していく人たちの無念さが重くて辛い。
そんなもん俺にどうにかできるわけないし、何をどうしたって死んだ人が生き返るわけじゃないし、当事者じゃないんだから辛がっても仕方あるまいに。

それでも誰かがやらなきゃいけない。

これは呪い?
それとも祝福?

反対する人、嘲笑する人、批判する人、非難する人、無視を決め込む人、起きていることから目を背ける人、少しだけ関わって逃げ出す人、いろいろいろいろいる。

幸い今の僕には仲間がいる。
だから、僕はやる。
これは福音。

根底の部分では、これを読んでるあなただって僕の気持ちなんか絶対にわからない。

わからないはず。
わかるわけないじゃん、俺がどんな気持ちでやってきたか、やっているかなんて。
誰にも話した事ないし。

だけど、あそこで「行ってきます。」を使う新海さんのナラティブに、激しく動揺した。
「何でわかった!?」って思った。
何かが崩れた感じがした。
そうか、やっぱり「行ってきます。」なんだな。

そして、とてもとても大事なことがわかったのです。
今日はここまで。

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