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 私がこのファームに来る数ヶ月前、大きなハリケーンがこの地域を襲ったらしい。その影響で苗の出荷が遅れ、全体の工程も遅れたと聞いたのは、働き始めてしばらく経ってからのことだった。
 その頃には、ファームハウスにも見知らぬ顔が増え、チーム内に幾つかのグループが出来ていた。そのような状況の中、誰が同じチームで誰が他のチームなのか明確に区別できている人間は少なかった。
 今シーズンの最古参となっていた私は、新しく加わったメンバーの送迎やオリエンテーションを任されていたので、それなりにチームのことを把握していたつもりだった。けれど、全てのメンバーの対応を私がしていたのではなく、英語の苦手な台湾人の案内は台湾人のメンバーが対応し、私の都合がつかない時は他のメンバーが担っていたこともあり、いつ加わったのかわからないメンバーもいた。
 その中に台湾人三人と日本人一人と言う珍しい組み合わせで合流したグループがいた。台湾人の若い男性と女性三人という組み合わせで、彼らはブリスベンの学校で仲良くなり、共にファームへ来ることにしたという。
 そのうちの若い日本人女性は、あまりコミュニケーション能力に自信がないらしく、人前で話すことは少なかった。それでも、人の心をこじ開けることに長けた私のルームメイトは根気強く彼女との対話を続け、いつの間にか向こうから話しかけてくるような関係が築かれていた。
 彼女はファーム生活は時間があるので、ギターを始めると言った。前から興味があったのか尋ねるとそうではないという。当時の私は、なぜオーストラリアまで来て一人で篭ってギターを練習したいのか理解ができなかった。そして無意識に揶揄っていた。理解できないことを恐れ、遠ざけて置きたかったのかもしれない。あるいは、ジャブを打つことで相手の芯を見出そうとしていたのかもしれない。けれど、そのジャブすら届かないほど、我々の間には精神的な距離が開いていたことを覚えている。
 こうして振り返ると、溢れてくる思い出を止めることができなくなる。全てを語ろうと思えば過去に囚われたまま抜け出せなくなってしまう。なので、距離感のある相手の話をした後で、もう一人、距離を縮め損った人の話だけしておこう。
 その日本人女性は麻を纏ったフランス人とベンチに座っていた。タイトなジーンズに記憶に残らない無難な英文字プリントのTシャツを着ていた。胸囲の布ははち切れそうだった。彼女はマッサージ師だと言った。日々の収穫や運転で身体中の軋みを感じていた私は、早速彼女にマッサージを依頼した。名前は忘れてしまったが、何かしらの流派のマッサージを会得したらしく、私は今までに動かしたことのない筋肉が動かされていることを感じた。私は翌日から数日間、まともに歩くことができなかった。股関節と腰に強い痛みを抱えて働いていた。彼女は慣れないうちはみんなそうだと言った。痛みがとれた頃にもう一度施術すると可動域が格段に広がるというのだ。私はそれを信じて次回の施術に期待することにした。
 そんな話を食堂でしていると、あたりが騒がしくなってきた。左目の横を緑の物体が掠め、後ろの壁で何か硬いものが割れる音がした。それと同時に辺りを怒号が満たした。男たちの流れが一方向に傾れ込んだ。先頭では誰かが体勢を崩しながら逃げているように見えた。私は一緒に座っていた数人のメンバーを近くの入り口に向かわせた。私は男たちの流れに背を向け、私の背後に好奇と怯えの目を向ける彼女たちを制した。
 怒号や悲鳴、野蛮な鼓舞や呆れた溜め息、さまざまな感情が共同厨房の周りに漂い、男たちの熱気によって巻き騰げらた。血生臭い液体が辺りに飛び散っていた。
 事情を聞くと、私が所属していたチームの台湾人が、台湾人だけで構成された新しいチームの人間に何かを言ったらしい。それが彼らの逆鱗に触れて怒りを買ったとのことだった。聞くところによると、80年代生まれの台湾人の文化と90年代生まれ以降の台湾人のそれとは、かなり違いがあるらしかった。特にその遊び方や男性の女性に対する態度、または酒の飲み方。私のチームには90年代以降生まれの台湾人が多く、台湾人だけのチームの多くは80年代生まれの者が多いとのことだった。若い世代の中には、上の世代と相容れず、国を出て他に居場所を求めるものも少なくないということだった。
 私は、台湾人だけのチームに何かを言った当の本人に話を聞きに行った。彼は頭から流血したようで、医療用ネットとガーゼで応急処理がされていた。どこの国にも用意の良い人間がいるものだ。彼曰く、後から来たチームが食堂を占領し、我が物顔で騒いでいる姿が気に食わなかったという。そんな折、先に席についていた自分達のテーブルを無理やり引き離し、酒を飲み始めた一団に我慢ができなくなり、文句を言ったところ、その場にいた相手方の大勢の台湾人に袋叩きにあったとのことだった。
 そのような野蛮なことが現実としてあるのかと私は驚いた。暴力により自らを正当化することは可能か、非常時に無法地帯になることは止むを得ないのか、そのような疑問を抱いた。しかし、彼は自らは手を挙げなかったと言う。暴力と言論。80年代から90年代に一体台湾でどのような変化があったのか、関心を抱く契機となった。
 さらに不思議なことに、ファームのオーナーやスーパーバイザーは後から来た台湾人グループの肩を持つような発言をしていた。結果として、ファームを去る決断をした人間が多かったのは私が所属していたチームの方だった。シーズンが終わりに近づいていたこともあり、他のファームに移る者や三ヶ月のファームジョブを終えてシティ暮らしを望む者、帰国する者や全く別の土地を目指す者。仲の良かったメンバーもそれぞれの旅路を進ことになった。あのマッサージ師もいつの間にかチームを離れ、二度目の施術が行われることはなかった。不条理が我々のチームを解体してしまったように感じた。
 私はあの韓国人が率いたチームがこのファームを去った時のことと今回の流れを重ねて考えていた。彼らもこの場所を追われるようにして姿を消したのであった。ファームにはファームの事情があったのだろう。理不尽だとは思ったが、彼らと暮らすことの方が私には耐えられなかった。セカンドビザを申請するには、まだファームで働いた日数が足りなかったが、この環境に甘んじてまで日数を稼ぐ気にはなれなかった。
 私はしばらくシティで暮らすことにした。当初の目的であった、バリスタになるためにはシティでの求職活動が必要であったし、今の英語力を試してみなくては次に進めないと思ったからだ。また、苦楽を共にしたルームメイトがワーホリ最後の一ヶ月をブリスベンで過ごすと言うので、彼との別れを先延ばしにしたいという気持ちもあった。
 このような経緯で、初めてのファームで重なり合ったさまざまな出会いと温かな共同体は、瞬く間に崩れ去った。あの後もあのファームにはさまざまな国から人々が集まり、それぞれのドラマを紡ぎ、またそれぞれの旅路を進み、出会いと別れを重ねていったのだろう。そしてきっと今年もまた新たな出会いがそこここに溢れている。あそこであった人々と連絡を取ることは少なくなったが、私の中には感謝の念と共に確かに彼らの存在がある。彼らの存在が私の背中を押してくれている。そのおかげで私は今日も進んでいける。私の存在もまた、彼らの中でそのような温かい掌のような存在であることを願う。
 書ききれないこともたくさんあったが、初めてのファームでの出来事を綴るのはここまでにする。必要があれば、その時にまた必要なエピソードを持ち出すものとして、次の町、ブリスベンでの話に進もう。

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