明延鉱山鉄道 その2 明神電車①設備と列車
明延鉱山鉄道の明神(みょうじん)**電車は、一円電車の名前で動態保存されていて一般の方にも知られています。私の学生時代にも、NHKの ニュース(NC9)や旅行雑誌で取り上げられるたりしていました。*** ところが、立ち入り禁止***になったとの口コミ****が伝わって来ていま した。事実の様でしたが、鉄道研究会の先輩たちが、この有名な列車を 見ずしてナローファンを語る事は出来ないだろうとの決意で、追い返されて元々という事で出かけたのでした。
幸いにも、その1で話しましたように、元従業員の方に偶然お会いして親切にお世話して頂いたおかげで、2日間も自由に楽しむ事が出来ました。 事務所にきちんと話をすれば、理解して頂ける事も分かったので、3年後に再訪した時も安心でした。
明延に着いたものの道に迷った私たちは、元従業員の方に案内されて選鉱場を抜け、車輛工場を抜け、車庫も裏から抜けるという、裏口入学で明神電車の待合所にやって来て、写真の風景に出会いました。
初めて見る珍妙な列車に子供の様に大喜びしました。鉱山の工場で一つ一つ手作りされた車輌は、不格好でしたが、作った人の顔が見えるようでした。
1 車庫
巨大な選鉱所の隣に小さな車輛修理工場があり隣接して、明神電車の車庫がありました。
ここから、線路が始まっていました。
鉱車が選鉱場まで並んでいる山側の線路は、言わば本線です。左端の線路は、車輛修理工場に繋がっています。
車庫には、2形式の電気モーターカー(4 あかがね号列車 参照)が入庫しています。
数百m先にも、屋根だけの車庫がありました。
1980年の時は、こちらに電気モーターカー「あかがね号」が停車中でした。
2 待合所と乗車案内
二つの車庫の間に待合所がありました。ここで、入場券も発券していました。看板だけしか撮影していません。すみません。
説明が、後になってしまいましたが、明神電車は鉱山のある明延と主力の選鉱場と製錬場のある神子畑を結ぶ約6kmの路線です。待合所には、色々と乗車案内が掲示がしてありました。かいつまんで紹介します。
乗車資格 従業員と操業関係者およびその家族、または許可を受けた人です。明延に社宅があったので、従業員や家族を神子畑へ運ぶための社内の 輸送設備でした。
乗車料金 「文化会育成基金への謝礼」の名目となっていました***。従業員とその家族は1円、社外者は10円、乳幼児 無料です。実際には、乗車券の作成費の方が高かったと聞きました。
他の交通機関への連絡 神子畑発のバスと播但線の新井駅発の国鉄列車との 連絡表が親切に掲示してありました。国鉄を「列車」、明神電車を対等に「電車」として記されていました。*****
時刻表 、平日6往復 休日4往復 所要 30分 でした。 (時刻は割愛)******
3 あおば号編成列車
長さ約5mの単車の客車 一輌だけの列車です。閑散時に運用されるようで、通常は車庫に入っているらしくて、姿が見えません。1980年の時に、 運よく出会う事ができました。神子畑へむかうあおば号を引く機関車が、車庫の向こうからやって来ます。
機関車がかわいらしければ、まるで遊園地の列車の様です。
あおば号があまり見えなくてすみません。後ろが崖で怖いのです。
目の前を通り過ぎると、すぐにトンネルに入ってしまいました。
入り口は複線ですが、神子畑まで単線の路線でした。
4 あかがね号列車
奇妙な車両ですが、保線や工事などの人員輸送に使われる、ワンボックスカーの様な形をしたエンジン駆動のモーターカーと言う車輛に似ています。その電気形なので電気モーターカーと言ったら良いでしょうか。
① 閑散時人員輸送用
あおば号の様に閑散時に運用されていました。定期運航以外に、残業などで遅くなった人の輸送の臨時列車にも使用されていたと聞きました。1977年の時は、日曜日の終電(17:00)で帰ったのですが、あかがね号でした。その時に、停留所前に停車していた写真です。
幸運にも乗車する機会を得ましたが、運転手の方は横向きに座って前を見ずに、ずっと乗客とおしゃべりに夢中でした。初めて乗る私たちは、怖くてたまりませんでした。
② 荷物運搬用
鉱車を連結している姿も見かけました。臨時ダイヤで荷物の輸送にも当たっていたようです。
5 くろがね号・わかば号編成列車
一番多く運用されている編成です。「一円電車」と言えばこれで、養父市で保存されている編成です。長さ約8mのボギー車のくろがね号、長さ約5mの単車のわかば号、片流れ屋根の木造荷物車の3両編成です。前後に連結したL型の機関車で牽引していました。
明延の待合所前で出発を待っているくろがね号・わかば号編成列車です。
この列車の時に、単車のわかば号に乗った事を覚えています。明延から 神子畑までの6kmに、4kmの長いトンネルと短いトンネルが2つもあるので、トンネルの真っ黒の中を頼りない裸電球の明かりでずっと過ごします。単車なので、揺れと騒音がひどすぎて、ボギー車のくろがね号にすれば良かったと後悔しました。4kmのトンネルの途中に信号所の様な所があります。ここで鉱車とすれ違いました。車輛限界ギリギリのすれ違いは、鉱車が切る突風や轟音が、客車の中まで突き抜けて行きます。リアル過ぎます。 こんな、簡易な車輛ながら、窓に厳しく格子が嵌められている事に納得しました。
長いトンネルを抜けて、しばらく見晴らしのある所を走った後、短い
トンネルを抜けると神子畑です。
見晴らしのある所へ移動して、折り返しの列車で最後の撮影しました。
何か見えるのでしょうか、乗客の人がドアを開けて外を覗いています。 運転手も顔を出しています。
ドアが閉じられて、とうとう去って行ってしまいました。
私が、明延鉱山鉄道を見たのはこれが最後でした。
次回のその3では、各車輛について、ひとつづつお話しします。
* 当記事の作成には、約半世紀前の出来事を思い出すために、下記の手記を読みました。マークした所以外は転用はしていません。筆者のお名前は、割愛させて頂きました。
・TABLET 57号(1977年)名古屋大学鉄道同好会 会誌 「明延の「一円電車」」
・せのはち 2号(1978年) 広島大学鉄道研究会 会誌 「明延泥酔記」
・軽便を求めて (2021年) 「明延鉱山」 <鉄道研究会の先輩が成果をまとめられた手記>
** 養父市ホームページのパンフレット「明延鉱山」で明神電車は「めいしん」とふりがなされていますが、1977年に現地で教えて頂いた「みょうじん」を使わせて頂きました
*** TABLET 57号(1977年)名古屋大学鉄道同好会 会誌 「明延の「一円電車」」によれば、観光気分でやってきた人たちが、車両に落書きをしたり、トンネル内で走行中に扉を開けて外を覗くなどの危険な行為を繰り返したと書かれています。私も、同様の事を聞いていました。
**** 当時のナローファンの情報源は、口コミ、国土地理院の地図、鉄道雑誌の片隅の記事でした。
***** 軽便を求めて (2021年) 「明延鉱山」を参考にしました。
****** せのはち 2号(1978年) 広島大学鉄道研究会会誌 「明延泥酔記」を参考にしました。
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