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【店主のひとりごと】11

私の社員時代(20代前半)の話です。

Lからはじまるコンビニチェーンに就職した私は、約半年で研修→店長代行→店長となり、いよいよ「国分町二丁目店」に赴任しました。

リーブスというカプセルホテルがあるビルの1階で、今は「田よし」というお好み焼き店になっている場所です。

さて、その店はフランチャイズ店でしたが、オーナーさんが辞められるとのことで、直営店に戻るという珍しいケースの店でした。
店舗の売り上げ規模としては仙台市内では中ぐらいで、立地がいい割には今ひとつという感じです。

通常、コンビニ店のピーク時間(客数の多い時間帯)は昼ご飯時が一番で、その次は夕方から夜にかけて、またその次が通勤途中の朝方という感じでしょうか。

で、私が店長で赴任した「国分町二丁目店」のピーク時間(もっとも売上の高い時間帯)は、深夜の0〜3時で、その次が夕方から夜にかけて、という感じでした。
オフィスや住宅が少ないので昼や朝はわりと暇でした。

場所がら、氷とパンストがやたら売れる店でしたね〜
0〜3時まではレジ前に長い行列ができて、アナログレジ1台のワンオペだったので、ほんとヤバかったです。この時の経験で心臓に毛が1本ぐらい生えたと思います。

さて、店のメンバーは前のオーナーから働いていた朝昼のパートさん(主婦)とフリーター(高校中退のヤングマン)、夕方のバイト(高校生)数名、深夜のバイト(若いバンドマン)に、新たに加わった店長代行と私という布陣です。

で、この深夜のバイトくんが「時間になっても来ない」がたまにあり。電話しても出ない。。

そうすると必然的に私がそのまま出勤する形になるのですが、10:00に出勤してるので、既に12時間働いています。
お分かりの通り誰もいないので次の日の朝、パートさんとバイトくんが来るまで帰れませんw

そうです、20時間勤務の始まりです。
ちなみに次の日の出勤は10時なので、隣のカプセルホテルに泊まって3時間ほど仮眠してから出勤してました。今思うとよくやってたと思います。

月の休みが夜勤明けの2日のみ(実質休みなし)とかいう感じでしたが、楽しかったし、若かったので、頑張れました。
今の私ならおそらく死んでますw

この店では他にも色々ありました。

「店内での喫煙はご遠慮下さい」とお客様に言ったら火がついたタバコを投げつけられたり。。
家で寝てるとバイトくんから電話があり(深夜3時)、「鍋焼きうどんの底に穴が空いていて火傷した」というお客様から連絡があったとのこと。2時間後、代わりの鍋焼きうどんを持って先方の家(高級そうなマンション)に行ってピンポンしたら「どう考えてもヤバい人」が出てきたり。。
プリントサービスで預かったお客様の写真のネガが紛失(店に過失はない)し、連絡をとって行ってみたら強面のスナックのマスターだったり。。

冷房の機械が壊れて水が漏れて、下のテナントのスナックが水浸しになり、そこのママが怒って怒鳴り込んできたり。。

発注をミスって、周りの店に弁当とおにぎりを借りに行ったこともありましたw

そんな中、色々対策を打ったおかげで店の売上は順調に伸び、就任2ヶ月後には仙台で3番目の売上(月販)の店になりました。1番店は西公園前店(市民会館の斜めにあって今は無い)、2番店は広瀬通店(今もある)。

その後開催された東北事業部管内の店長会議では、売上前年対比の達成率で2位になり(東北1位の目標は叶わず)、東京ビックサイトで開催された全国のオーナー向けのイベント(新商品や新しい取り組みを紹介、会場内に店舗丸ごと展示してました)に招待されて行ってくるなど、貴重な体験をすることができました。

しかし感心したのは、その時1位になった店長です。
周辺の企業や民家を回ってお中元の注文を取りまくって売上を底上げしていたのです。そう、売上を作る方法は店内だけではなかったということです。「負けた」と思いました。

その後、コンビニの会社は辞めることに。
勤めたのはたった1年でしたが、本当に濃い1年でした。

次はその当時、流通業界4位のあの会社へとらばーゆ(死語)です。

続く。

#店主 #カフェ店主 #店主のひとりごと

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