見出し画像

藤原行成の書跡


はじめに

 前回『枕草子』から見た藤原行成の話をしましたが、今回は藤原行成の書跡について話をしていこうと思います。
 行成の書跡がすばらしいことは、何も『枕草子』をまつまでもなく、おびただしい事実があります。行成には公私のさまざまな揮毫依頼がありました。殿閣門号や寺額、祭文や願文、写経や歌書、その他書物の外題などに麗筆をふるったことは、行成が書いた日記『権記(ごんき)』に記されています。
 当代随一の能書家として聞こえが高く、その書は権跡(ごんせき)と呼ばれ、小野道風、藤原佐理とともに「三蹟(さんせき)」と称されていたことは、周知のことです。その書風は世尊寺(せそんじ)流の名で知られていますが、世尊寺というのは藤原行成の祖父伊尹(これまさ)が邸内に創建した寺によったものです。

〔栗原信充//画〕,写『肖像集 10 山岡景友・藤原行成』(国立国会図書館所蔵) 「国立国会図書館デジタルコレクション」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1287710)

漢詩から見る藤原行成の書跡

 今日まで現存している行成の書蹟は少なく、真蹟と鑑定されているものを取り上げてお話ししていきたいと思います。
 取り上げたのは「白氏詩巻」、『白氏文集』巻第65から8首を書写したもののうちのひとつです。

藤原行成筆,By Fujiwara no Kōzei (972–1027),東京国立博物館,Tokyo National Museum『白氏詩巻』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-57571)
色変わりの料紙に、『白氏文集』巻第65から8篇の漢詩を、瀟洒で明るい書風で書き進めた調度手本である「白氏詩巻」。


 二玄社から複製本が刊行されていますし、 「ColBase」にも収録されています。「晩に天津橋に上り閑望す、偶(たまたま)、盧郎中・張員外に逢ひ、酒を携へて同じく飲む」と題するものです。
 当時の社交界にたつには、古人の名吟佳句を暗誦して、折に触れ機に乗じて、直ちにそれが口をついて出てくることが必要でした。特に流行していたのは白楽天の詩文です。
 同じ時代に生きた藤原公任が編纂した『和漢朗詠集』は当時愛読されていた和漢の詩集や歌集から、朗詠に適する優れた詩歌約800首を選んだものですが、そこには白楽天の『白氏文集』から多くの佳句が採られています。そのことからも、白楽天がいかに好まれていたのかを知ることができます。『枕草子』でも出て来た香爐峰の雪、「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香爐峰の雪は簾をかかげて見る」と『白氏文集』にあるのを想起したものであることは、あまりにも有名です。
 この「白氏詩巻」には本文の後に、行成自身の識語(しきご)がついています。

藤原行成筆,By Fujiwara no Kōzei (972–1027),東京国立博物館,Tokyo National Museum『白氏詩巻』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-57571)
藤原行成の識語
「経師」の筆を借りて書いたため普段とは違っており笑わないでほしい、と述べています。

 それによれば、寛仁2年(1018年)8月21日に書かれたものであることが明らかになっています。行成47歳のときの筆跡で、ちょうど油の乗り切ったころの筆です。

書状から見る藤原行成の書跡

 次に取り上げるのは書状です。文首にあるのは草名、こういう形式は純漢文の手紙の書式とされています。

藤原行成筆,東京国立博物館『書状』(東京国立博物館所蔵) 「ColBase」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/cobas-162241)


 「謹んで言す、去春よりこのかた、偏(ひとえ)に鎮(ちん)に赴かんと思ふに、公私、抛(なげう)ち難きの事有り。暫く逗留の間、俄(にわか)に勅命を奉じ、五節(ごせち)の舞姫を献ず。相次いで明春の進発を期するの処、忽(たちま)ち朝恩を蒙り、不慮(はぱからず)も昇進す。」
「鎮に赴かん」というのは、鎮西すなわち大宰府に赴くこと、行成は寛仁3年12月に太宰権師(だざいのごんのそつ)に任じたので、大宰府に赴任しなければならなかったのですが、公私とも離れ難いことがあり多忙でした。
 それでしばらく在京していたところ、急に勅命があり、毎年11月の新嘗祭に行われる五節の舞姫を献上することになりましたので、その選定を終えて、明春(寛仁5年春)を期して出発しようと考えていました。
 ところが、今度は計らずも昇進しました。昇進は寛仁4年11月29日に権大納言に任じられたことを意味するものと思われます。その後
 「疎遠の輩(ともがら)と雖も一たび言に接し▢を談ずれば、礼を為し義を為し、来賀数有り。況んや親昵(しんじつ)の人、会合して其の忻悦(きんえつ)を共にせざるは無し。随ひて亦、光臨を相ひ待つこと日有り。然り而して無音、空しく旬月を送り、芳情の香を知らず。」
と続きます。
多くのお祝いの客があった。当然、親しい貴殿もお越し下さるものとお待ちしていましたが、御来駕がありません。無音のまま空しく一月が過ぎ去ってしまいました、という意味でしょう。後半部分が欠けていまして、その後がよくわかりませんが、この内容から判断して、この書状はおそらく寛仁四年の年末ごろに書かれたものと推測することが出来ます。そうすると行成49歳の時の書状となります。
 前のものとは2年の違いがあり、またその紙幅や紙質、書かれた状況も異なっているわけですから、その筆跡を単純に比較してあれこれ言っても意味がありませんが、こちらの方が柔らかく、やや縦長の丸みを帯びた字となっています。

おわりに

 藤原行成は詩文の才にも秀で、儒学・漢文学の知識にも通じた一流の教養人でしたが、ことにこの流麗な書体によって、ひとり当時において名声を博しただけでなく、長く後世にわたって和様の能筆家として称えられました。この一点でも、我が国文化史上に不朽の名をとどめています。
 最後まで読んで下さった方に感謝を示しつつ、権跡のすばらしい書風を鑑賞しながら、行成の書跡のお話を終えようと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?