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『政治』について

政治したい。この8月中、ずっとそう思っている。しかし、それは千葉県知事選挙に出馬したいとかそういうことではなく、もっと広い概念だ。おれ独自の意味かもしれない。政治学をどこかで習ったとしても忘れてしまった。

政治とは

おれの考える政治はこのようなものだ。
利害や意見に対立がある二者が話し合い、どこかで妥協点に達する。その過程の話し合いでは、相互に相手の主張を検討するだけではなく、自身ではわからない特徴を炙り出し、深い理解を形作る。
この図式は社会のさまざまな部分に適用できる。国政であれば、例えばロックダウンを推す代議士と反対する代議士の間で行われるのは政治だ。例えば企業なら、営業マンとクライアントが商談するのも政治だし、ボスと労働者が労働条件の交渉をするのも政治だ。もっとミクロにすれば、隣の部屋からの騒音に苦情を言いに行くのも政治だし、夫婦間で家事の分担をするのも政治だし、おそらく恋愛も政治の連続だ。"政治したい"の答えを三分の一ほど言ってしまった。

政治の本来の姿は、音楽やスポーツと同様に人々が熱狂してしかるべきものだ、というような言説を数か月前ツイッターで見たことを覚えている。話し合いによる自己理解・相互理解という面から、おれはこれを擁護する。

政治したい

政治したい。

余談

2年前期にコレオグラフィーについての講義を受けた。この講義は名目上はダンスについての授業であったが、その実「コレオグラフィー」として受講者の癖を取り出し、他人のそれを真似たり、自分のそれを意識して消したりする実践を通じて、環境から与えられた癖であり、自分を規定する「アルシ・コレオグラフィー」を自覚するという授業だった。
コレオグラフィーは個人史としての側面を持っている。それが衝突したり伝染したりすることは、「政治」の図式で説明できるのではないかと思う。

この記事は八月十五日、季語で言えば終戦忌に書き始めたものだ。意義は知らない。また、アップロードは九月上旬にこそなったが、内容のほとんどは八月中旬に書いたものだ。尻切れ蜻蛉を許してほしい。

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