見出し画像

誰かを好きになると世界を好きになれる 漫画『あげくの果てのカノン』

『あげくの果てのカノン』というマンガを読んだ。すごかった。立てなくなった。このマンガには少女漫画とSFと昼ドラの要素が入れ替わり立ち替わり出て来る。それぞれの高揚が絡み合い、脳が混乱して情報が処理できなくなり、気がついたら両目から怒涛のように涙が出ているという次第である。米代恭さんという23歳の女性漫画家が書いているそうだ。すさまじい才能である。

【あらすじ】

舞台はゼリー(エイリアン)襲来によって、機能を失った東京・永田町。地上のパティスリーで働くフリーターの高月かのんは、高校時代のバスケ部の先輩の境先輩に8年間片思いし続けている。先輩はゼリーと戦い世界を救う特務部隊隊員の大スター。既に同僚の美女と結婚しており、世間が羨む理想の夫婦としてメディアでもてはやされている。地味な一般市民のフリーターのかのんには付け入る隙もないが、いまも先輩を盗撮したり尾行したり使用済の綿棒やコースターをコレクションしたりとかなりのストーカー気質を現役で発揮中。そうしてじっとりと先輩を追い続けていたかのんだが、パティスリーに先輩がやってきて8年ぶりに再会!しかし先輩は戦いによって怪我した身体をゼリーで「修繕」することによって心も身体も変わってしまう運命を背負っていた...

先輩との会話をこっそり録音して何度も聞き直すかのんちゃん。完全に犯罪者だがめちゃくちゃカワイイ。

かのんちゃんが先輩を好きになったのは、高校のバスケ部で先輩が優しくしてくれたからだった。先輩はハンサムで朗らかで賢くて優しくて、そんな先輩をかのんちゃんは好きになった。まるで太陽のようだった先輩を神様のように崇めて、でもろくにコミュニケーションもしたことがないから、存在自体を盲目的に好きだという。普通の人はなんらかのフィードバックがなければ相手を好きで居続けることなどできないが、かのんちゃんのストーカーまがいの恋はもはや2次元キャラに恋をするようなものなので、一方的に見ているだけでも成立するものだった。そうやって一方的に見ていた人が振り返ってくれたらどうなる、というのがこの話だ。

人を好きになるのはどうしてだろうと思う。恋というのはなくても死なない。お腹がいっぱいになるわけでもない。それでも誰かを好きになってしまう。好きになる人は選べない。服や家や車や進路を選ぶ時のように、「AよりもBのほうが自分のためになるからBにしよう」とはならない。むしろ草野球で打ったホームランボールが頑固おやじの家の窓を割ってしまうように、どうしてよりによってこの人を好きにならなくちゃいけないんだろう、みたいな人を好きになる。

恋愛感情は本当にやっかいだ。何のメリットもない人を好きになってしまって、思考や意志ではそれをまったくコントロールすることができない。どうしてこんな機能が人間についているのだろうと思っていた。恋愛感情というものがなければ人間社会はずいぶんシンプルになる。人生も簡単になる。

それでも人を好きになるのは、誰かを好きになることを通して世界を愛することができるからだ。特に女性は、相手を自分と同一化するほど没入して他者を愛することができる。誰かを好きになることはすごい。何の関係もない他者に強い関心を持つことができる。その人が笑えばうれしい、声を聞くとうれしい、顔を思い出すとうれしい、言われたことを思い出すとうれしい、近くに行くとうれしい、身体に触れるとうれしい。その人が考えていることを知って、その人がいるところに行って、自分が何の関連もなかったものごとに入っていけるのがうれしい。

誰かを好きになると、その人がこの世に存在することがうれしいと思う。そうしてその人を存在させてくれるこの世界が素晴らしい場所だと思う。他者を通じて、初めて世界に関心を持ち、祝福することができる。だから、誰かを好きになるのは素晴らしい。

キリスト教でもやたらと「愛」という言葉が出てくるが、ギリシャ語では愛には4種類あると言われている。

1. エロス:肉体的な愛、主に男女関係の愛、見返りを求める愛。

2. フィリア:友情愛。友達、同郷、同邦のような連帯感の愛。

3. ストルゲ:親子愛。親子関係の愛、師弟関係の愛。

4. アガペー:神様の愛。無条件の愛、見返りを求めない愛。

かのんちゃんが今までやってきたストーキング的な愛は4の現実に1を入れ込む混合系だ。これはいわゆるオタク、2次元のキャラクターに恋する人と同じものである。それが先輩と再開し、生身の人間に向き合うと、どんどんと1をやらざるを得なくなる。この現代社会で生きていくうえでは、婚姻とかいろいろな制度というものがあって、見返りのない愛は意味がないとされている。婚姻や交際にいたることなく、4を生身の人間相手においてやっていると、この世界では社会不適合者のバカということになる。見返り(婚姻とか)がなくても、ひたすらに誰かを好きでいるというのは、みんな普通高校生くらいで終えておくものらしい。

1巻では2次元で見ていた憧れのキャラが3次元に飛び出してきたみたいな感じで圧倒されるかのんちゃん。作中ではスタンダールの『恋愛論』が引用され、人は「少しの希望があると」恋をするのだと説かれている。果たしてこのどん詰まりの恋愛において、かのんちゃんと先輩はどんな希望を見出すのだろうか。

そして観念の世界で生きてきたのに、2巻や3巻になると、ちゃんと生身の先輩と向き合い、立派に対峙しているのがたくましい。まぶしすぎる。こんなに立派な対峙を描いているのに、作者の米代さんは男女交際の経験がなく、全てをすさまじい観察眼によって描いているそうだ。映画の『ゴーン・ガール』の登場人物の感情の移り変わりをノートに詳細に記したりしているのがすごい。

そうしてつぶさな観察眼によって描かれるダイナミックな世界では、ハンサムでモテモテで世界のヒーローの先輩も、良く出来た奥さんも、その内側は生身の人間で、さまざまに悩んでいるうえで生きているんだということがわかってくる。少女漫画的な憧れの先輩的な恋愛のキラキラと、壊れゆく世界と作り変えられる人間というセカイ系なSF感、そして昼ドラのドロドロ感という3つの要素が入り混じり、まったく目が離せない。

電車の中で読んで、「ああ、人を好きになるってこうだなあ」と鼻水が垂れるほど泣きました。皆さんも是非読んで、そしてのたうち回ってください。

あげくの果てのカノン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?