見出し画像

映画「セッション」

「セッション」という映画を見た。

この作品は最初っから、そのもったいぶった仰々しい描写で「この映画はフィクションです」というつくりごと映画の空気を醸し出していた。「この映画の世界では音楽で人が死にます」という、「テニスの王子様」みたいな世界だ(このマンガでは高校生のテニスの試合で人がミイラになったり死んだりする)。そういう世界ならこっちもそういうつもりで見る。だから「フルメタル・ジャケット」みたいなド根性練習風景とかも全然気にならなかった。

いかにも善良そうな顔つきをした主人公は、この世界には自分より「上」があって、自分はそこに登っていきたいと思っている。「フルメタル・ジャケット」との違いは、前髪ほどのチャンスを掴めば「上」に行ける、「偉大」な人間になれるという「希望」があることだ。

「上」からのチャンスは、まったく思いもかけない時にやってくる。果たして自分を試された時に、それに応えられるのか、そして「上」に行けるのか。その「上」に行くドアを開ける鍵というのは、時間を守ることだったり、出番がないはずの時でも万全の準備をしておくことだったり、他人を出しぬくことだったり、とにかく思いもかけない鍵で開く。その鍵が開けられないのは100%自分の責任でしかなくて、しかしどうしても人は油断するし、他人のせいにするし、放漫になってしまう。それがビシビシと伝わってきて「お前はちゃんとやってるのか」と問いかけられているようで二時間ずっと泣いていた。ああ、このすごく精神的にキツイプレッシャーがかかる感じの映画あったな、なんだっけ、ああ「なまいきシャルロット」だ、と、あの死ぬほど後味が悪い映画のことを何十年ぶりに思い出したりした。

この映画の教師が人格破綻者だろうが、主人公が甘えた人間だろうがどうでもいい。完璧な人間などおらず、みんなどこか破綻しているし甘えているからだ。

わたしは教師の本心は、主人公にジャズバーで語った「わたしはチャーリー・パーカーを育てることが出来なかった」という後悔の通りだったと思う。その原因は、たしかに教師の若い生徒に対する嫉妬心だったかもしれない。その結果、生徒を死に追いやってしまったりする。しかしこの教師が生徒に向かって「倍のテンポで叩け」「そうじゃない」「そのリズムじゃない」と、執拗に(ドラマーが手から血を出すまで)要求したのは、教師の理想とする「倍のテンポ」が頭のなかにあったからだと思う。そしてそのテンポは、「楽譜に書いてある」。だがそれを出来る者はいままで現れなかった。

ところが、教師が夢にまで見た、理想の「倍のテンポ」が、ラストの演奏シーンで実現した。教師はついにチャーリー・パーカーを育てる事ができたのである。主人公が音楽をつかみとり、理想のテンポを叩きだす伝説のドラマーが誕生したことで、主人公も、そして教師も救われた。というのがラストシーンの意味だと思った。私は。

この映画はジャズミュージシャンの方からすごく非難を受けていると言われている。実際にミュージシャンの人がセッションをするときは、「キー」という基本の音階だけを共有して、それぞれが音を出し、周囲の人が出すメロディやリズム、そして観客の空気とからみ合って、音楽をつかみとっているように見える。ミュージシャンの人を見ていると、よくここでこの音を出すべきだと瞬時に判断できるものだと驚くばかりだ。それはこの映画で描かれていたことと正反対だから、「そうじゃないです」ということなのかもしれない。

私がこのラストシーンで良いと思ったのは、一切のセリフが入らずに、ドラムソロの音と、他のメンバーや指揮者とのコミュニケーションだけで「音楽のちから」を描き出そうとしたことだ。

というのも、むかし同じく音楽ネタ映画で「オーケストラ!」というのがあった。こちらはフランスのおとぎ話系映画なのでだいぶホワホワしているのだが、ラストシーンはそれなりに「音楽の奇跡」で人々が大団円を迎えるという「音楽の力」を見せつけるものであった。だが残念ながら、「オーケストラ!」は演奏カットだけでなく、そこでセリフやキャプションなどを挿入して「音楽のちからってスゴイ!」みたいな演出をしてしまい、かなりの興ざめを導いた。ガックシである。そんなルサンチマンがあったので、ますます「セッション」には感動し、熱狂したという次第だ。この映画、テニプリだと思って是非。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?