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カバ その4

前回のあらすじ: カバが引き続き台所で喋っている

日曜の夜が更けていく。

カバの身にふりかかった悲しいこと。カバは僕の心情を慮って気持ちがわかると言ってくれたが、置かれている状況はまったく違うのだ。僕は手を伸ばすことができない。いまこの手のなかにないものを、失うことが恐ろしいからだ。

「でもわたしは、妻に会わなかったら良かったとは思わないんです。彼女が去ってから数年経ちましたが、いまでも、わたしにとって一番大切な人です。何を見ても彼女のことを思い出しますよ。冬に舎に差し込む光が好きだって言ってたことや、雪が降るたびに、雪を初めて見た彼女がものすごく喜んでいた顔、それにちょっとやわらかめのりんごが餌に出ると、彼女が柔らかいりんごに文句を言っていたのを思い出します。断然許せない、っていつも言ってて。笑っちゃいますよね」

「そんなにいつも思い出していて、悲しくならないんですか?」

「もちろん悲しいです。最初はショック状態で、何も考えられませんでした。彼女を失ったという事実が現実だと捉えられなかった。でもだんだんそれがわかってくるんです。雪が降っても、柔らかいりんごが出ても、それを伝えられる人がいない。そうすると、ものすごく悲しくなりました」

「それはそうでしょうねえ。」

「わたしはものすごく気が塞いで。何をやっても楽しくないし、世界を恨みました。食事をとらなくなって、まわりのひとにすごく心配をかけました。わたしに彼女を与えて、突然奪い去る世界に腹が立って仕方がなかったんです。考えるのは彼女のことと、どうやったら彼女を失うことを避けられたのか、そればかり。最も最悪だったのは、向こうの動物園ではもう新しい相手が用意されているんだから、わたしのことなんかもう、とっくに忘れているのかもしれないという考えです。気が狂いそうになった。そのへんにいるハトを理由もなく襲って食べたりしました」

僕はカバが、そんな気持ちを抱えて、どうやってこんなに穏やかにしていられるのかが不思議だと言った。

「そうやって怒って周りを恨むようになると、彼女がすてきだったことをどんどん忘れていくんです。わたしの怒りばかりが大きくなって、彼女と過ごした幸せな日々のかけらが見えなくなっていく。でもふとした瞬間に彼女がわたしにやさしくしてくれたこと、大事だって言ってくれたことが蘇ってきて、怒ることはやめようと思いました。彼女はわたしのもとにやってきてくれて、わたしのなかにいまも確かに住んでいる。そういうことを台無しにしたくなかったんです。悲しみは彼女のことを思ってのことですが、怒りは自分のためのものですから」

カバの小さな目がうつらうつらと閉じそうになってきた。眠そうだ。もうとっくに12時をすぎている。動物園の生活からしたら相当な夜更かしだろう。でも僕はカバと話すのをやめることができなかった。

「怒りは自分のためのものか。そうですね。そうかもしれない。僕はすごく怒っているんだと思います。世界のすべてに対して。こどもの頃からいつもイライラしていました。周りを見下したりしていた。この怒りを捨てることができたら、僕は変わることができるのかもしれない。僕がはまっていると思っている穴から抜け出せるのかもしれない」

彼女に対しても僕は無気力な被害者のふりをして、内面ではすごく怒っていたのかもしれない。そう思うと、ものすごく恥ずかしくなってきた。

「田中さん、あなたは素晴らしい人ですよ。欲望というのはまるで象みたいに力が強いものですから、それに振り回されてしまって、今は見えなくなっているだけです。でもそれほど心を動かされるというのも滅多にない機会ですから、欲望だって素晴らしいことなんですよ」

「自分が矮小な気がして、素晴らしいとはあまり思えないけど」

「ははは。会ったばかりなのでその素晴らしさを詳しく説明することはできませんが、こんな見ず知らずのカバを家に入れて、お茶まで淹れていただけるなんて、それはあなたが多様性を認める、ものすごく心が広い方だということです。それだけは覚えておいてください」

カバはうつらうつらしていた。僕は明日会社に行ける気がしないなと時計を見ながらぼんやり考えていた。

「ああ、すごく眠くなってきてしまいました。ここはとても暖かいから。田中さん、ここで少し眠っていってもいいでしょうか?動物園まではちょっと遠くて。バスも終わってしまいましたし」

カバを乗せてくれるバスがあるのかはわからなかったが、もちろん泊まっていって欲しいと答えた。カバは歯を磨くと、ソファに横たわった。僕はその大きな身体に毛布をかけた。カバは目を半分開いて僕に言った。

「田中さん、それじゃあ、その彼女に会いに行きましょうか」

寝言か?寝言ではないみたいだ。でも寝言にしか聞こえない。

「いま起きている世界では無理でしょう。でもこれから行くところでは、きっとわたしたちは彼女に会えるはずです。そして、何かを変えることができるかもしれない。それでは向こうで会いましょう。先に行って、郵便ポストのところで待っています」

そう言うとカバは眠りに落ちた。カバが言っているのはどこのことなのだろう。きっと夢のほうの世界のことだ。彼女に会わないあいだ、僕は彼女の夢を見続け、というか、彼女が出てくるまで眠りから覚めることができないのだ。おそらくそのことなのだろうが、何かを変えるというのが何なのかまったくわからないし、カバに会える保証もない。

ああ、やっぱり明日は会社に行けなさそうだと思った。

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