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才能がある人には、才能がない人の気持ちがわからない

才能がある人には、才能がない人の気持ちがわからない。長嶋茂雄が人に野球を教えるときには「ボールがシュッて来るから、そこにバシッとバットを振るとね、スパーン!ってボールが飛んでいくから。やってみて」と全く参考にならないアドバイスしか出来ないという伝説のように。

才能というのは、その人の生まれ持った能力とか考え方のクセみたいなものによってあることが出来ること、そしてそれに評価がついてくるということで定義される。

人間がこの世界で想像できることは何でも出来るという考え方にわたしは概ね同意している。「職業」はまさにそうで、同じ組織から出来ている人間なんだから他の人にできていることは自分でも出来るはずだ。この現実世界はそれほど数がない構成要素の組み合わせで出来ているので、その組み合わせを駆使すればどうにかなるものだと思っている。そこで「出来ること」と「やりたいこと」が食い違っていると、茨の道になるのだけど、でもまあだいたいのことは、出来るんじゃないだろうか。

「好きなことを職業にする」というのが大変だと言われるのは、「職業」というのは他者からの評価が必要だからだ。会社員になるのには審査されなくてはならないし、コックさんならおいしい料理を作れると認められなければならない。ピアノを弾くのは誰にでもできるが、「ピアニスト」になるには他者から認められなければならない。

「ロイヤル・アルバート・ホールでロンドンフィルと競演するソロヴァイオリニストになりたい」ということがやりたかったら、ヴァイオリンもクラシックも世界中の人が小さい頃から英才教育を仕込まれてしのぎを削っている超レッドオーシャンなので、ものすごく難しいことになるだろう。しかも実際にそれが叶ったとして、そこからはまたさらに努力努力の日々が続くということまで想定して高い夢を見る人は少ない。ただしその夢を実現させるまでにいった人は、その道を走り続けるだけの力というものを、これまでに走ってきた過程で身につけていることが多い。

他人からの評価を求めると、生きる道のりは険しいものになる。ソリストでい続けたいと思っているのに世間はそう見てくれないという場合、死にものぐるいでその座にい続けなければならない。それが「才能のある人」、つまりすんなり出来る人だったらその努力もスマートになるだろうが、「才能のない人」がそこに居続けるには、まるで溺れる人が近くにいる人に必死でつかまるように、周りが見えなくなるほどの必死の形相でしがみつかなければならない。

そういうときに、「才能がある人」が「才能のない人」のことを見る目はほんとうに残酷なものだ。才能のある人は、「できないならそこから降りればいい」と思う。でも才能のない人は、そうもいかない。もしかしたら素晴らしいケーキ職人になっていたかもしれない人が、どうしても世界のオーケストラと競演するヴァイオリニストになりたいんだと思っているときに、周囲がその人に言えることはない。その理想と現実のギャップ、周囲の評価との乖離というものへの固執は、本人を苦しめるだけでなく、周囲を巻き込み不幸にさせることも多々ある。

また「誰にでもできることはやりたくない」という人がいる。誰にでも出来ないことというのは、その人固有のものを毎回引き出さなくてはならないので、とても骨が折れる。「テレビに出て有名になりたい」という人は、メディアに呼ばれる理由を作らなければならないし、しかもその理由を永遠に作り続けなければならない。「メディアでたまに見かける」人は、普段見かけるその裏で50倍ぐらいメディアに出ている。タレント業以外で有名になる人は本業を死ぬほどがんばらないとメディアから呼ばれない。

だからまあ、他人の評価を気にしなければ幸せな気持ちになれるんだけど、他人というコントロールできないものからの評価によって自分を設定すると、どこまでも不幸が待っているもんだと、最近つらつら考えている。






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