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テトリスは禅

わたしの人生唯一の娯楽といえば(飲酒以外で)、飛行機の中でやるテトリス。言わずと知れた、上から落ちてくるブロックを揃えて消すゲームだ。落下するブロックの向きをくるくると変えて、画面からブロックを消すのが目的だ。開発したのはソビエト連邦のコンピュータ科学者アレクセイ・パジトノフさん。ちなみにこのブロック、正しくはテトリミノというそう。

わたしにとって、テトリスは禅である。

テトリスのゲームを始めると、からっぽの箱の中に、ゆっくりとブロックが落ちてくるのが見える。ブロックは7種類ある。それらは正方形のブロックの組み合わせで、ずっしりと鎮座する■型、どこにでもはまる凸型、たくさん消してくれる縦一直線型、ちょっとしたスペースを埋めるのに良いが、あてはまるところがないときにはガンになる、ちょっとズレてるやつ。

その画面が開いたら、わたしがやることは一つしかない。ここにあるブロックを、ひとつでも多く消すこと。ほかには何も、考えることはない。とにかく消して消して消しまくる。

最初のうち、ブロックはゆっくり降りてくる。いまのところ、わたしの精神はいたって冷静で明晰だ。いま下にあるブロックと落ちてくるブロックの形を瞬時に照合し、しかるべき形に変形し、適材適所にさばいていく。

そのとき、普段どおりの思考でやっているとあっという間にブロックが積み上がって負ける。普段は「ブロックが落ちてきた」「これはこの形だ」「そうするとこういう形に変形する」「ということはいまあるここにはまる」というように順番に思考を巡らせているのだが、テトリスではそうはいかない。ブロックを意味に変換せず、手が動くままに感触だけで仕分けていく。

落ちてくるブロックは、もんやりと湧く感触によって分けられる。ブロックを見た瞬間に、チョコレートの詰め合わせの箱のように、「派手においしいから大好き」と「あんまりおいしいとも思えないけど入ってる」のどちらか、の反応が起こる。棒ならボーナス的にたくさんのブロックを消してくれるうれしいものだし、ずれているタイプのものはちょっと扱いが難しいので、そんなにうれしくない。

そうやって、見て湧いた反応の感触だけを頼りに、ひたすら手を動かす。視神経から情報が入って、そのまま脳を通さず腕に伝わっていくようなイメージ。わたしはわたしの精神の中に入っていき、まわりの全てが消える。この世界でいま、一番重要なのはブロックを消すこと。それしかない。そこに自我はなく、ただ目的を遂行する行動のみが現れる。

しかしちょっとブロックを落とす場所を間違えたりすると、わたしの精神が動揺するのがわかる。鏡のように静まり返っていた心にさざなみが起こる。心に沸き立ったさざなみはさらにさざなみを呼び、大きな波になってしまう。そうすると、さきほどまであんなに行儀良く消えていっていたブロックたちは、いまや身を張って我々の邪魔をする。積み上がるのはあっと言う間。そして来る終焉。カタストロフ。世界最後の日。

そしてまたあの明鏡止水の世界が恋しくなり、テトリスのプレイボタンを押してしまうのだ。

考えて、意味づけしようとすると、人間の思考は鈍る。だからテトリスをするときは、何も考えない。目の前にあるブロックを、ひとつでも多く消すこと。そのために手段は選ばない。きっとスポーツ選手はこういうフロー状態に自分を持っていっているのだろうと思う。いつでもこの冷静な脳でいられればと思うのだが、地上でテトリスをやると24時間やってしまいそうで怖いのでやらない。



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