振り返ればいつも高校時代が

まあ、ただのNEETですよ

私はマクドのグラコロが好きです。
最寄りのマクドは、去年12月末には終わってしまっていたので、今年最後の大仕事としてグラコロを思う存分食べる、食べ尽くすと意気込んでいました。
そしてやってきた11月28日。私は、家から一歩も出ませんでした。

ただの自堕落だと思います。本当は。
でも、私は挫折から全然立ち直れてなくて、どうすればいいかわかんなくて、もう二度と傷つきたくない。
だから、どこにも行きたくなくて、働くこともできない。
ほとんどひきこもりのような、NEETなんです。

とても簡単な略歴

私は前職で挫折をしました。
それまでは挫折をしたことがない人生を歩んできました。
中学受験をして、関西でそこそこの学力が必要な学校になんとなく入学し、そのまま大学までエスカレーターで進学しました。
新卒で入社した会社はなんか合わないなと思って半年ほどで退職し、間を空けずに翌月から2社目に就職、半年ほど経って数字を追うことに心身が疲弊し、1か月休職して退職しました。
今は親の脛をかじってだらだらしています。

自分のやりたいことに従って生きてきたつもりでした。
ただ、大学生の頃からは何も成長していないとも感じます。

バイトも1年続いたものはないし、正社員も半年程で辞めてしまっている。

振り返ればいつも高校時代がよぎるのは

そんな私でも深く熱中したものがありました。
高校の時所属していた卓球部です。
私は部長を務め、最後の夏に団体で近畿大会出場、シングルスで県大会に出場しました。
私の地区は強豪校が多かったので、高校から始めたにしてはかなりいい経験をさせてもらいました。
でも、それ以上にトラウマも生まれました。

実績はほとんど運だったなあと思っています。
20人程いた部員のほとんどが経験者で、キャプテンをした、その背負ってたもののおかげであると。
当時、外部の監督、顧問2名、卒業した先輩方がコーチとして3名いました。
コーチは私とも年齢が近かったので、ある程度冗談も言えたりしましたが、監督と顧問が問題でした。
(ここでは長くなるので主に顧問の話をします)

顧問は卓球に関しては素人で、たいして練習を見にくることもなく、大会参加の手続きや宿泊の手配などをするだけでした。
それなのに、部内でトラブルが起きても、私の耳に入らないまま顧問が勝手に話を進めることが多かったのです。
練習メニューはキャプテンである私が決めて、誰と誰を練習させるかの振り分け(台振り)もしていたのに。

くだらない顧問のくだらない話A

例えばこんなことがありました。
私が、キャプテンになって少し落ち着いてきた2年生の晩秋、ある部員が突然無断で休んだのです。
LINEやTwitterなど私が知る連絡先は全て連絡しましたが、返事がありませんでした。
監督と2人で心配もしつつ、半分以上はなにをしてるんだこいつ、と思っていました。
監督はほぼ毎日練習にきて指導をしていたので、なにか一言くらい言うべきだと思いつつ、監督も性格に難のある方だったので無理もないと感じていました。

数日後、顧問の1人(顧問Aとします)に相談してしばらく休む許可をもらったと連絡がきました。
私はもちろん、監督も何も知らず、顧問Aだけが知っていたのでした。
キャプテンになりたてで、実力のない私にとっては「キャプテン」という存在を揺るがされた気持ちでした。

顧問Aに確認したところ、その部員は部活動に参加するのがモチベーション的に難しいので休みたいと相談があり、休んでいいと言ったとのことでした。
もう決まってしまったことだから何も言わないけど、今後は連絡くらい、一報ぐらいは入れろと苦言を呈するのが精一杯でした。

その部員の件は一度忘れることにして、後輩のダブルスが出場する近畿大会に集中することにしました。
キャプテンとして、2人がやりたい練習ができるように練習を組まないといけないからです。

しかし、大会の前日。
その日は2学期の終業式でした。
学校の校舎に入ろうとした時、顧問Aからメールがきました。

今日の練習から○○さん(休んでいた部員の名前)が復帰します。
よろしくお願いします。

記憶上の当時のメール

言葉が出ませんでした。
急いで、承知した旨と当日に連絡すんなぼけ、大会前日だぞふざけんなゴラ!を先生方に送る文面で丸めて返信しました。

もはや成績表などどうでも良く、その部員がくる前に監督に話さなければということで頭がいっぱいでした(監督はそういうことにうるさい人)。
この時点で前もって部員に連絡することはほぼ諦めていました。
良いお年をなんて言う間もなくバタバタと部室に駆け込み、今日その部員が復帰する事実を伝えた直後、本人が少し苛立った様子で部室に入ってきました。
結局、その部員はその日、監督にも大した挨拶もせず、他の部員に休んでいたことについて釈明もせず、適当に時間を過ごして帰っていきました。
年明けの始業式、その部員は退部の挨拶をして卓球部を去りました。

その後、顧問Aは連絡だけはしてくれるようになりましたが、部員の相談に乗る一方で、その内容をキャプテンや監督に伝えることはありませんでした。
ただ、退部の意向とその日にちを聞き、私に伝えるだけでした。
別に全てを知りたかったわけじゃない。
ただ、何かキャプテンとしてできることはあったのか、これから部として変えられるものはあるのか知りたかっただけなのに。

顧問Aの授業は興味深く、ほとんどの授業を睡眠時間にしていた私ですら夢中でノートを取っていたほど、一生徒としても慕っていた部分がありました。
それだけに、この事件で受けたダメージは大きく、その後退部者が出る度、この人は変わらないのだと諦めの気持ちを強くしました。

くだらない顧問のくだらない話B

一方、顧問Bは、少し変わってて抜けている印象でした。
元から頼りにできそうな部分はなく、良くも悪くも当てにしていませんでした。
宿泊先のセンスはまるでない(毛布が髪の毛だらけなんて女子にはあり得ない)。
たまにやって来ては練習に混ざって卓球をする(素人なので練習にならない)。

よく言えばマイペースな自由人でした。
その上、非公式大会の申し込みをすっぽかすことが年に一回はありました(私が卒業してからもあったらしいので、もうこれは常習犯)。
私は日程を確認して念を押す工程がひとつ増え、顧問Bは私の心の中で呪われる運命となりました。

孤立無援の部長生活

そんなこんなで顧問は当てにならず、退部者も続いていくなかで、近畿大会を目指していくのは部員の方向性を揃えるだけでも苦労しました。
私の言葉で部員の方向性を揃えられないから、退部者を出してしまったとも思っています。

同学年の部員も退部していき、私ともう1人の部員だけになりましたが、その部員は体調不良で登校すらできていない状況でした。
監督も性格に難があり、部員は積極的にコミュニケーションを取ることを避けていた為、私が話し相手になっていました。
監督は練習の質を担保する要素としてしか捉えられませんでした。

夜中に母親に泣き縋ることもありましたが、翌朝母親に夜中になってから泣き出すの辞めてよなどと言われ、吐き出すことすら苦しい中で誰を支えにすればいいのかわからない状態でした(でも、結局母に泣きつく)。

味方はいた。だけど……

部活の後輩が、私の状況に同情し、共感し、寄り添ってくれたのが唯一の救いでした。
そして、コーチ達には練習後の時間に無理矢理私の練習に付き合わせていました(これをわがままプリンセスと言う)。

それらが試合で力になったのだと思います。
だから試合で結果を残せた。
卓球を始めた時、シングルスで県大会に行くと決めて、それを達成した。
やり残したことはない。

でも、心の傷として大人が信じられない。
顧問は親世代、監督は社会人リタイア世代でした。
目上の人間を頼りにできない。
きっとどこかで。
私よりも上の世代に対する不信感が残っているのだと思います。

私が辛い時、大人は寄り添ってくれなかった。
寄り添ってくれる大人を見つけられなかっただけかもしれないけど。
私が誰かに相談すれば良かったのか。
でもそんな発想すら湧かないほど、卓球に集中していて。
自分ですら自分の心に向き合えていなくて。

本当は辞めていった部員達の方が、自分の心に向き合っていたんじゃないか?
私は自分の心と向き合わないままそのまま大人になってしまった。

社会人になって返ってくるあの言葉

朝礼っていうみんなの時間も使って、
今の数字のままだったら
もういる意味ないよ。
死ぬ気でやってください。

前職の上長に言われた言葉だ。
コールセンターのアポインターとして日々数字を追っていた。
でも全然KPIを達成できなかった。
できないのは気合いが足りないからだと言われた。
KPIのたった1つの項目が達成できないだけだったけど、自尊心や自分の存在価値を喪失するには十分だった。

もういる意味ないよ。

私も後輩の部員に言ったことがあった。
その部員は程なくして退部した。
今、どこでどうしているのか全く知らない。

私が部長でやってきたことの全てが正しかったことなどない。
きっと間違っていることの方が多かった。
それでも前に進むしかなかった。
見捨てられない人たちがいたから。
私が辞めてしまったら、彼らの「先輩」は存在しなくなるから。

でも、そんな逃げのない茨の道がどれほど辛く苦しく痛いのか。
もうそんな思いはしたくない。
もう裏切られたくない。
もう熱中したくない。

きっと、そんなふうにして歩む道を、もう私は選べない。
でもどんなに逃げても朝は来るしお金は減る。
食べるためにお金がいる。
働かないといけない。

でも傷つきたくない。
わかっている。
人と関わって傷つくことなんか、たくさん紙を触って指を切ることくらい当たり前だ。

ここから抜け出すためにーー明日はきちゃうから

きっとこの長い話を読んだ方は感じていると思うが、高校の部活のできごとに関して私はまだ割り切れていない。
いまだにひきずっているのだ。
ここに書いてないことも含めて、そういうネガティブで傷ついた経験を私は昇華できていない。
挫折を知らないのではなく、挫折の立ち直り方を知らないのだ。

辛いとき、誰がだきしめてくれるんだろう。
泣きたいとき、誰が胸をかしてくれるんだろう。
これまでも精一杯、過去の私を今の私で抱きしめてきたつもりだけど、同時に、過去の私を猛烈に非難する今の私もいるのだ。

2社とも、大きい括りでは営業でした。
まだやりきったわけじゃない。
だからまた同じような職種をしようかなと思ったりもするけど。
もう何も信じられるものは残ってなくて。
きっと合ってないことはないだろうけど。
もう営業と呼ばれるものはやめて。

もう少し休んでいたいけど。
生きるのが辛いけど。
まだ死ぬほどじゃないから。
まだ、まだまだ生きてかなきゃいけないから。

過去の私も含めて今の私があるというのはわかってる。
私を全部優しく包んで、それを赦せない私すら赦してあげたらいいんだろうな。
まずは自分が自分を信じてあげられるように。
怖いけれど、自分との約束を守れる自分になって。

約束は3つ。

①ITパスポートを取ること。
②プログラミングの勉強をしていくこと(1日最低1ファイル。とりあえず教材見る。)
③やりきるまで諦めないこと(≒1年勤続する)

来年の今頃は、少しは世界が優しく見えるように。
目の前のことを少しずつ、やっていけたらと思います。

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