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時政その頃 Vol.5

ワタクシが小学6年生のときに他界した母方の祖父がノートに小説を書き残していました。それがなぜかワタクシの手元にあり、長い年月が経っていましたがこの度「note」という場を借りて発表することにしました。

祖父は神童と呼ばれるほどの天才で当時飛び級で大学に進学。海外へ留学したこともないのに英語ほかドイツ語などもペラペラだったのを覚えています。百貨店や商社に勤務していましたが物心ついたときには定年を迎えており、癌でこの世を去りました。

山登りと写真撮影が好きで何度か一緒に山登りしましたが、いかんせんワタクシたちはまだ小さかったので本格的な登山はできず物足りなかったことでしょう。

ワタクシが写真を始めたのは祖父の使っているカメラを譲ってもらったことがきっかけなので、その点には本当に感謝しています。いまだにその時のカメラは形見として保管しています。

祖父は小説家になりたかったらしくひっそりと小説を書いていたとのこと。そのうちの一つだけがワタクシの手元に残りました。今回発表する「時政その頃」は時代小説であり、祖父は歴史にも造詣が深かったことを伺わせます。5万文字を超える分量なので2,500文字前後ずつに分けて投稿いたします。

できるだけ毎日投稿しようと思いますが、忘れたらゴメンナサイ。


前回のつづき

四郎が物心ついた頃から、この人が流人として伊豆に住まっていることを、何時からかともなく、誰から教えられるでもなく知っていた。四郎だけではない。この日の父源義朝が平治の昔謀反の兵を起こして宿敵平氏に敗れ、一族の男子ことごとく、敗死、刑死をした中で、この人一人が死を赦され、十四歳の花の莟を北条とは目の鼻の伊豆の蛭ケ小島という地に配流されて来、既に十五年の余も流人の汚名を背負ったまま伊豆に住み着いていることを知らぬ者は無い。
 
 それは、四郎の今までの生涯より更に長い歳月である。流刑の初めは平氏の預託もあって父時政や伊藤祐親らの監視の眼も光り、元服を済ませて頼朝と名乗ってはいたものの、年端も行かぬ孤児の身で、それはそれは心細げに、亡び去った一族の校正を弔う読経や写経に一縷の生き甲斐を秘めつつ、つゆの命をつないでいたと言われる。
 
 しかし、十五年余りの歳月は、いつしかこの人をも三十歳を越す青年にしていたし、周囲も直接の怨念は無いのだから、内心の同情こそあれ、強いてどうしようという訳もなく、ただ隆昌の一途をたどる平氏への思惑から由ある者は寄らず触らず、そうした中で当人は日と共に鬱屈の皮を剥ぎ、時には人眼を避けつつ物語の相手になる若者もあるらしく、いつしか伊豆を自由に往き来しはじめ、人の眼にも触れるようになっていた。
 
 孤児ゆえ家族は無い。謀反して滅んだ家に所領など残されよう筈もない。以前の家柄が家柄だけに、乳母の関係や、父祖の恩顧を忘れかねる人もあり、そうした僅かの人の隠れた庇護がこの人を支えているという。武者である頼朝を語らって謀反を企て、数日間は天下を押さえた藤原信頼の勝手な除目(叙位叙官)で、戦乱のさなかに右兵衛佐に任ぜられたことから、人は前佐様とも読んでいる。
  
その青年頼朝が伊東の館主祐親が番役に上って不在中、その娘八重姫の許に通って千鶴と呼ぶ子までもうけたのである。二年ばかり前の時政が番役に上ったすぐ後のことであった。三年越しの番役を終えて昨年帰還した祐親はこれを見て驚き、相手が頼朝だけに都に聞こえ平氏に知れては一大事と、あろうことか孫の千鶴を滝に突き落として捨て、なお激怒の余り太刀を抜いて頼朝を追ったというのである。

 ここまで聞いた時政は色を失い、
「なにっ!そんな話をなぜもっと早う言わなんだ。それで、どうなった?前佐殿はもうこの世にいないのか」
と思わず四郎に詰め寄って、その狼狽ぶりは四郎を驚かせた。
「いえ、この祐清が慌てて馬を引き出して頼朝様を逃がせ、その場は何とか父をとりなしたそうです。祐清の母者が頼朝様の乳母筋ゆえ、必死に説いたものと思われます」
「それで、無事に済んだのか」
「はい。もう一年も経ちますし、八重姫もそのあと早々と江馬の小四郎に嫁がせてしまいました」
「それは良かった。成程、祐清なら、それぐらいのことはしような」

時政はようやく安堵の色を見せ、
「それにしても、伊東はせっかくの乳母の筋を、これで滅茶苦茶にしおった」
と独り呟いた。

 四郎の眼からはゆきずりの路傍の青年に過ぎない頼朝の話に、どうして父はこうも神経を高ぶらせるのか、意外であった。
 最近、その頼朝と、四郎の妹政子との間に、どうやら二年前の伊東の娘との関係に似た兆しのあることも漏らして、話の結びにし、父ならどうするか、それもそっと試してみたいと思っていた四郎は、慌てて後の句を胸に押し下げ、その胸でこれは妹の方も巧く蓋をせねば、父が帰ればたいへんなことになるかも知れぬと思った。それと同時に、この疑問が思わず口に出てしまった。
 
「お父上は、頼朝殿のこととなると只事でないようですが、何かあるのですか」
「四郎、お前や兄の三郎やその年頃の者には、このときマサラ平治の昔をこの目で見てきた者の前佐殿に対する気持ちは判るまい」
としみじみとした口調で時政は
「平治の昔と今とでは、東国の仕置はあmるで違うてしもうたのじゃ。千葉介、上層介のように血族も多く、とてつもない同族の大きな力を集めている者はそれほどでも無かろうが、そんなのは至って稀じゃ。

大方は、口に事うかつには出せぬが、胸の内では同じように思っている筈じゃ。四郎はどうおもう。この腕を見い」
と酒を撒きながらつきだした袖を捲り、
「白いじゃろ。それに、細くなったと思わぬか。番役で都にいるより、北条の己の荘に居るほうがよく働くからじゃ。庄屋や百姓と一つになって働く。庄屋の間のいざこざにも、自分の館に起きた揉め事と同じに思って顔を出す。川が溢れたといっては堤をなおし、大風が吹いたといっては取片付に精魂を枯らす。今は少なくなったが、新地を拓くにも、みんな俺が采配を振って荘を守っている。父祖以来、辛苦して開かれた北条の地だから、何をおいても守らねばならぬと思うからじゃ。その自分らの努力で築きあげ守り続けてきた地を自分らの物とするのに誰に何の遠慮がいろう。それが、どうじゃ。国司の力で公領に取り上げられはせぬかと、昨日の山門のあの加賀の末寺がよい例じゃ。

それに力づくで他から攻め取られはせぬかとの不安もお互い無いではなし、基礎って都の摂関家や社寺のちからのありそうな所へ寄進ということにして、その名の庇護で、己の荘の安泰を守っているではないか。本所という他人の力に頼ってじゃ。そのために、年々の運上は欠かせぬし、幾年目かにはこうして番役が廻ってその大切な荘を空けて大勢が出て来ねばならぬ。

つづく

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