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かき氷の季節がまたやって来る。

久しぶりに文章をしたためています。

初めてのnoteが1月のああいったご報告だったので、それ以降、なんでもないようなことを紡ぐのはハードルが高くなってしまっていました。
このへんで、一旦気持ちを整理するために、書いてみます。

初めての記事を書いてから5ヶ月半経ちました。
つまり彼女(ここだけお名前書きますね。花さんです。)と会えなくなってからは、半年以上が経ちました。

ふとした時に思い出す、というよりは今もまだ思い出にはならなくて、当たり前のように時折LINEの履歴を遡っちゃったりします。
信じられないという思いはだいぶなくなりました(だって事実会えていない)が、寂しいです。

日々を生きていて、彼女と仲良くしていた事実が間違いなく今のわたしを形作る1ピースになっているから、あの日々が夢じゃなかったんだなぁと思ったりします。

彼女は出会った当初から、自分というものの軸がはっきりしていて、好きなもの、大切にしたい人、それをたくさん言葉と態度にして表現できる人でした。

出会ったのがTwitterという場所だったこともあり、好きなものを好きだというときに、その本人やコンテンツに伝わらない形でただ垂れ流す人が多いのも見てきましたし、それが当たり前なのかもしれませんが、彼女は違いました。

ステキと騒ぎ、反応があったと喜ぶだけではなくて(もちろん騒いでもいましたが/それは私も)、どこがどうよかったのか、何がどう自分に響いたから好きなのかを言葉にし、そしてそもそも「とても好きである」という事実をダイレクトに伝えていました。周りから自分がこう見えるんじゃないかとか、照れ臭いから言えないといったことがなくて、好きなんだから好きだってちゃんとその人に伝えたい、それだけでした。

それが、別に有名人とかヒットコンテンツとかだけじゃなくて、クイズでお会いした方とかTwitterでの友達にもみんなにそうだったし、私には彼女の言葉に大きなぶれない軸があるからこそ根拠があるように見えたし、事実、語る言葉もたくさん持っているように見えました。

そうやって好きだと言ってくれることが自分にとってとても大きな力になっていることに気づいたときに、相手に伝える労力を惜しまないということ自体が本当に大きな愛情だなぁと尊敬し、当たり前だけどほんとの意味で「伝えなければ伝わらないなぁ」と実感したのでした。たまたまひとりごとを見つけてくれたらそれはラッキーでしかなくて、伝えにいかないと伝わらないんですよね、普通は。そして自分が思っている以上に言葉や態度でそれを表現できていないものだ、とも思いました。そして彼女のことが大好きになりました。

それからは私も、本人に直接伝えることが一番の愛だと思って、出来るだけそうするようにしています。軽率に好きだとかありがとうとかおめでとうとかリプしちゃうのは、そうしないと(運が良くなければ)伝わらないと思っているからです。

好きなことをツイートするときに引リツや公式タグ付けをするのも、意図は同じです。もちろんそれを相手が迷惑だと思う形でなければ、ですが。

いまこうしてクイズを続けられているのも、彼女の「好き」への行動力や熱量に背中を押されて、彼女が一緒に作ってくれた地盤があることがとても大きいので、わたしの人生において本当に大きな転換期を作ってくれた大事な人です。

6/20、彼女の命日から半年の日に、はるかふちゃんとかき氷を食べました。生前彼女からよく美味しいと聞いていたお店に初めて行って、3人で来たらこうだったかななんて話をしました。不思議ですね、本当に。

前回の最後にまだ思い出を振り返れないと書いたので少し振り返ってみました。個別の思い出は胸において。

次からはもっと軽い話を書ければいいなと思います。