コロナと診断されて思ったこと。Vol,2

もう一筆したためます


「コロナに感染したのに、謝罪はないの?」
夫にこう言われたと相談する女性をお見かけしました。

そうなんですよ。コロナに感染し、高熱の中で一番最初にしたことと言えば…わたしも「謝罪」です。(ちなみに、我が家のパートナーシップでは、そんなことはあり得ず、もちろん彼は心得ておりますから責められることはありませんでした)

しかし、パートナーが濃厚接触者になってしまった→10日間仕事に行けず→関係者に謝罪する。一番キツかったことです。しかも体調が悪いとメンタルもサラッと連れ去られるので、通常の倍キツイじゃないですか。

ウィルスをキャッチしてしまうことは仕方のないことであって不可抗力です。通常であれば謝罪は必要ありません。コロナと診断された皆さま、まずは全てを忘れて、ゆっくり休んでください(笑)

コロナ感染者叩き


コロナに感染したと公表せずに隠す方が大半である理由は、コロナ感染者叩きが存在するからではないでしょうか?

敏感に繊細に反応してしまう気持ちも理解できるけど「コロナに感染した」というフレーズを耳にした途端、目の色を変えて叩く風潮はどうなんだろう。

第一に、感染したこと自体は、非難の対象になり得ない。わたしのように、人が多い場所が苦手で、所謂イベント等に参加してなくても、夜な夜な飲みに行かなくても、うつりました。ウイルス側には人格などありませんし、単に感染しやすいところで感染しただけだと思うんです。

感染者叩き、コロナ患者やエッセンシャルワーカーに対する差別、ワクチン接種の同調圧力、自粛orマスク警察…。

価値観の押し付けと分断を目の当たりし、叩かれて辛い思いをされた方が多かったのではないのかなぁ、と。

コロナ禍で露見する本性


東洋経済に書かれていたことを抜粋します。

コロナ禍によって暴かれたのは、よくも悪くもそれまでの所属組織や人間関係の真価だった。例えは悪いかもしれないが、大規模かつ長期的な心理テストの被験者にされたかのように、職場や家族などのメンバーが特定のストレスでどのように振る舞うかが試されたのである。いわばコロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であったのだ。コロナ以前であればごまかすことができていた「不都合な真実」が次々と露見し、経営者や上司、パートナーや友人たちの化けの皮が次々と剥がれていった。
東洋経済

まさに、その通りだと。生命が脅かされる状況だからこそ露見する本性。コロナは、色々なものを露見し露呈してくれた。

ただし、Vol,1に引き続き、この件に関してもネガティブな要素はあまり感じられず、全てひっくるめて紛れもなく世界に対して平等に与えられたギフトだな…と、個人的に感じております。

コロナ渦において、多方面から「人間性」を突きつけられながらも自分自身の生き方と向き合う。人生の中で何が大切か?を真剣に問う。

そして何よりも、他人を介して自分自身の本性と出会って絶望し、寛容性を求めて器を広げることに注力してみたり、成長を決意したり。そして本当は、どのように生きて行きたいのか?を再度模索してみたり。

ある意味コロナは、人類において、とても良いキッカケであり、学びとなった気がするんです。


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