自由研究:ディーの告白について

「…俺はニンジャになったんだよ。俺はニンジャだ。それは素晴らしい事なんだ」「おい……ディー」ジョシュアは呻いた。彼は思わずステージに走り出しそうになった。アンコールの曲が始まり、吹き飛ばされるような爆音が、ジョシュアを打ち据えた。

【プロメテウス・アレイ】#6 においてディーはジョシュア(フィルギア)の助言を振り切り、大衆に向けて自分がニンジャになったことを告白した。これについて発表当時長すぎるため実況ツイートに出来なかったことを自由研究の形にしたものです。

ジョシュアは自分の経験からニンジャになったばかりのディーに1990年代におけるニンジャの「生き方」を教えた。それは頭を低くし、己の正体を隠しモータルのように生きることだった。そうしないリスクのちゃんと教えた。だがその上ディーは観客の前に自分の正体を暴露した。私はそれを自分への過信や増上慢ではなく、ミーム伝承によるある意味必然と考える。

アメリカの歴史においてマイノリティの多くは差別され、そして抵抗を繰り返してきた。不服を叫び、血を流し、勝利の足跡を刻む。黒人は近代だけでも1960年代におけるシヴィルライツ運動から最近のBLMに続き、LGBTQにも多くの人のカミングアウトによって2014にて同性婚合法化に繋がった。この土壌をもって「自分が自分であることを社会に受け入れさせるための戦い」がアメリカ全体のミームの一部として組み込まれ、ある程度ディーに伝承した。

そしてミームと言えばディーたちがやってるロックンロールについて語らねばならない。ロック、ファンク、パンク、メタル。そういったジャンルのルーツはいわゆるアンタイセイ・ミュージックであり、当時環境に相まってSly and the Family Stone の Stand! みたいに政治色の濃い歌も若者たち間に流行ってた。しかし1970以降人権運動の衰退と共にそういった音楽の流行りに目をつけられ、運動の賛歌から商品の一つにあり方が移行した。1990年代の頃にはまだRage Against the Machineのようなアンタイセイ・バンドが存在するが売るために存在するロックバンドもまた多く存在する。最近RAtMのメンバーが最近アンタイセイ・ツイートしたのに対して音楽を政治化するな!」と反応した人(別の人に「RAtMの名前で何のマシーンに対して怒れって思ってんだ?食器洗浄機か?」と返された)やこの作中にあるようにブラストボトム・ボトルズみたいなロックを消費する場所もロックの現状を示したものと思う。そんな現状に一泡吹かせようと躍起になるプロメテウス・アレイは歌のスタイルに相まってプリミティヴでアンカット、歌詞こそイーサンの即興だが精神がなりを潜めたロックのミームが再び顕在化したかのようだ。社会に従えというフィルギアの助言に対しロックの反抗的なミームは危険的で、致命的だった。

ディーの告白は反抗的精神によるものだがその代償も多分それに相応のものだろう。前も言ったようにマイノリティの抵抗は常に血をもって代償を払ってきた。ゲイとカミングアウトした人は社会的に迫害され、1955年バスの後ろに座らなかったRosa Parksは職を失い、モンゴメリーに半ば追い出された。しかもニンジャは数が圧倒的に少なく、古代の統治によってモータルの間に遺伝子レベルの恐怖が組み込まれている。冗談と思う人ならまたしも、ダンのように理不尽な結び付けで殺意を向く人も出てくるだろう。

ジェイド・ディヴィニティヴにまつわる事件を何度も見たであろうフィルギアの助言は冴えており、色んな意味でも彼らしく正しい状況判断だろう。だがどこかで色褪せたプロメテウス・アレイの世界にてディーは行き場のない熱をエゴに乗せて思いっきりシャウトした。我々読者はフィルギア同様あの結末を見届けるしかない。

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