今日の言葉(その5)

今日の言葉:採取場所・ネットの海
「君の愛は信じてる天気予報ぐらいにね」

 ひやりとした床に膝をつき、覚悟の度合い分ゆっくりとした動きで正座になる。何度同じことを繰り返しても、この時間が一番緊張する。肌が薄くなったように空気の動きを読み、心臓はその薄い肌を突き抜けるように大きく脈打つ。まだ足音は聞こえない。だから、これでもまだ余裕はある。緊張をほぐしたいのか、緊張に耐え切れなくてか、つい大きく息を吐き出してしまう。螢様はドアに正対して座らせてくれない。迎え入れるように正対し、頭をもたげたいのにそれをさせてくれない。緊張した背中を見るのが好きだから。そうおっしゃっていた。だから、背中全体を耳にし、皮膚を目にし、待ち続ける。足音が近づいてくるのを。
 カーテンが動き、風を感じると同時に、カツンと高い音が響く。
 その音に脊髄反射で全身がさらにこわばったのを感じとってくださったのだろう、フッと笑む空気が足音の合間に耳に届いた。怖い、嬉しい、怖い、嬉しい。その反復のように鼓動が全身を包む。身体の横を甘い香りが撫でるのと同時に熱を持った額を冷たい床に押し付ける。何も言わせてもらえない、何も言っていただけない。だけど、もう始まっている。螢様だけが、わかってくれている。ボクはもう物なのだと。だから、ボクに声をかけることもしなければ、ボクが声を発することもない。強欲なボクの願い。何も言わずに感じ取ってもらえることを、ボクはやっと螢様で手に入れた。何も聞かないでほしい、何も言わせないでほしい。土下座のまま石になったボクをそのままで居させてほしい。このまま何もされなくてもいい。いや、何かされるのを期待してるにも関わらず、物でありたいボクはそう願っている。願いと欲望は違う。いや、ボクが強欲なだけだ。まだボクが人の形をしている証が、この強欲さだ。螢様のお顔が見たいと思うのも、螢様に座ってほしいと思うのも、螢様に触れて欲しいと思うのも、ボクがまだ人であることをまざまざと突きつける。ボクは物になりたいのに。ボクの願いは物であることなのに。欲望がそれを許さない。
 螢様が新たな風を作る。強く耳に届く風鳴り。床を打ち鳴らす衝撃音。何をするのかを見なくても解らせていただけるこの優しさは、ボクの人の部分を心躍らせる。同時にボクの物の部分を侵食し、強欲は入り混じり、早くボロボロにされたいと、ただの的になりたいと、一途な想いになって停止する。
 殴られたような重みの刹那、切り裂くような熱い痛み。声にならない声を呑み込んで、美しく縦に残る熱さを反芻する暇もなく、次の直線が引かれる。ボクは的、優秀な物、ただただ無機質で、無反応で、そう願っているのに、息はあがり、熱も上がり、汗が噴き出る。こうじゃない、こうじゃないんだ。アーチェリーの的のように、ただただ無言で射抜かれていきたいのに。大会でもなく、単なる練習の的として、ボロボロで的として使えなくなるまで、使い潰してほしいのに。息が漏れる、声が零れる、もう直線を引くところがなくなった背中に情けなくなって、ボクは涙を流し、人として泣きわめく。

――螢様ぁっ、っぁ、はっ、ぁっ、愛して、ますっ!

「……どうしたの?」
「ぁ……申し訳ありません……」
「なにかあった?」
「い、いえ……か、感極まって、しまって……」
「ナルシスト」
「あ、いえ……あの……本心です」
「物なのに?」
「……すみません」
「業が深いね」
「あの、でも……あ、いえ……」
「どうぞ」
「でも、本当の気持ちです。ボクの人の……部分の」
「人の?」
「……はい」
「人なら……返事が欲しい?」
「あ、はい……いえ……や……わかりま……せん」
「君の愛は信じてる」
「あっ……ありがとうございます」
「天気予報ぐらいにはね」

 喉がカラカラになる。自分の汗が傷にしみる。的をかろうじて留めていた部分を射抜かれて、ボクはゆっくりと顔をあげていく。物にも人にもなり切れないボクにぴったりの答え。心のない物に信じる信じないもない。無心になれない人に信じる信じないもない。愛なんて口にしたらモノじゃない。愛なんて口にできるようなニンゲンでもない。ぐるぐるとし続ける思考に、これ以上ない着地点。緊張感がほどけ、安堵に包まれ、惚けきった顔を晒す。まばゆい太陽のような笑顔が視界に入る。まぶしくて直視できない。涙で焦点が合わない。明日の降水確率は50%だった気がする。

 

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