今日の言葉(その1)

今日の言葉:採取場所・高円寺
「夜が力をくれる」、「星は恥ずかしがり屋だから」

 休日をどう過ごそうか、そうぼんやりと考えてモニタに向かったり、床に積まれた本をペラペラと捲っているうちに、窓の外から冷気が忍び込んできていた。また、何をするわけでもなく、もう陽が落ちかけている。
 いつも目が覚めると、せっかく休日なんだから、天気がいいのだから、どこか外へ行ったり、なにか楽しいことを、そう思っている。そう思っているのだけど、気が付くと日が暮れている。
 何をやってるんだろう。どうしてこうなんだろう。
 そう思うのも、いつもの、毎週のことだ。
 だけど、今日の僕には、ある言葉がある。
「夜が力をくれるから」

 いつものように無駄な時間を過ごし、腹が減っていることに気付くと同時に重かった腰をあげて、すっかり暗くなったドアの外へと這い出る。
 お気に入りの安居酒屋にほぼ開店と同時に入るのも毎週のこと。たいがい一番客だ。しかし、今日は先客が居た。見たこともない、この安くて小汚い店のカウンターでは異質ともいえる若い女の子だった。
 気になるけど気にせずに、定位置に座る。女の子とは椅子二つ分離れている。
「ようちゃん、いらっしゃい。晩飯コースでいいか?」
「あ、うん。ありがとう大将」
「せっかく美人客がいるんだから、毎度隅っこじゃなくてもいいじゃねぇの」
 そう言いながら、大将が大瓶とお通しを置く。そんなことデカい声で言わなくてもと手酌でビアタンにビールを注ぎながら女の子をチラ見したら、くるりとこちらを向いた。
「こんばんは」
「あ、どうも」
「そこが定位置なんだよね、きっと。隣行ってもいい?」
「え、あ……はい」
 面を食らっているうちに、女の子はコートと荷物を抱えて隣に座った。
「いいお店だね。私、今日この町に引っ越してきたの。前沢かなえ、よろしくね」
 肩までのふわふわの猫っ毛を揺らして、彼女は半分減った生ジョッキを掲げてきた。
「あ、井村洋次です」
  カチリとグラスが鳴って、お互いにグビリと喉を鳴らした。
 元々が飲み屋でバカ話をするタイプでもないし、酔わずには常連とすら話さないから、この間をどうしたらわからない。困惑していると、大将があら煮大根を持って、デカい声を出す。
「ようちゃん、女の子に声かけさせちゃだめじゃろ! お嬢さん、何丁目に越してきたんだい?」
「3丁目。すぐそこの路地を入ったところ、緑の屋根のアパート」
「おう、ご近所さんか。今後ともよろしく頼むよ! 元々安飲み屋だからあんまりサービスできねぇけどな」
「あは、こちらこそお世話になります」
 そんな会話に口も挟めず、大根に切れ目を入れていた。
「この町はいい町の感じがします。夜になると昼とは違う活気が出て、なんだか夜が力をくれているみたい」
  てっきり大将に話しているのかと思っていたら、彼女はこちらを向いていた。
「そう思わない?」
「え? えっと……夜が力をくれて、る?」
「うん、そう」
「そうか……な」
「んー、君だって……夜になったからお家から出てきたタイプじゃない?」
 ギクリとした。なんでわかるんだって。飲みこんで固まった息をふっと吐いて、冷静に考えたらどこかへ出かけた帰りのような小洒落た服装はしてないし、足元だって偽物のクロックスなつっかけだ。家から来たことは、別に誰だってわかる。けど、見事に面と向かって言い当てられて、うまい返しなんてできるはずがない。
「だからね、夜の力で部屋の外に出た君とこうやって出会えたでしょ。すごいね」
 そう言い切ると、彼女は自分のつまみをもくもくと食べ始めた。
 だらだらと過ごしてどうしようもないなぁと思いながら、重い腰をあげたのが腹が減ったからじゃなくて、夜の力。そんな風に思える人がいるんだ。思わぬ言葉に、その言葉を発した彼女に興味が湧いた。これを飲んだら、自分からなにか話そう。そう思ってビアタンを傾けた。
「ごちそうさまでした、大将」
 彼女はすっと席を立った。え、ちょっと待って、今、声をかけようと思ったのに。しかし、もちろん声にならない。
「えー、もう帰っちゃうの?」
「うん、まだ段ボールいっぱいだから、片付けなきゃ。またゆっくり来ます」
「あいよ、絶対待ってるよ~」
 そうか帰っちゃうか、でもまた会えるかもな、今度は自分から……声をかけよう。そう視線をあら煮大根に向けてモゴモゴとしていると、頭の上から声が響く。
「知ってる? 今日はふたご座流星群が良く見えるんだって」
「え?」
「流れ星。良く見えるんだって」
「あ、そ、そうなんだ。でも、流れ星っていままで見たことないな」
「ホント? 見ようと思ったことはあるの?」
「あ、うん。でも、見てない」
「そっか、見ようと思い過ぎてるのかも知れないね。猫と一緒で星も恥ずかしがり屋だから、じっと見てると恥ずかしがって出てこないのかも」
「猫と……一緒……」
 言ってることはわかるけど、どう返せばいいのかわからないでいると、大将がお会計を伝え、彼女はぴったりの金額を出してコートを羽織った。
「あ、あの、俺……わりと居るから。また、よかったら」
「うん、ありがとう。おやすみなさい……ってまだ早いね」
「あ、うん。じゃあ、また」
「またね」
 濃い緑のダッフルコートから小さな手のひらがひらひらとして、彼女は引き戸をするりと開けて出て行った。
 大将に茶化されながら、いつも通りにあら煮大根とやきとりを5本で大瓶を1本空けて外に出る。ふと電線だらけの空を見上げたら、町の光で夜らしい色に見えない浅い闇にすうっと薄い光が走った。
「あ……」

 あれから一週間。
 今日も日が落ちるまで、仕方なく洗濯をしたり、合間にTVを見たり、どう時間を使ったのかわからないまま、陽が落ちていた。
 窓の外から冷気が流れてくる。でも、これは夜の力だ。
 重たい腰を上げる夜の力。
 彼女が来ているかわからないけど、それは重い腰を上げてみないとわからない。
 さて、行くか。夜の力に引っ張られて。

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