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震源から遠く離れた我が家で、転がり始めたもの -前編-

9年前の今日、我が子の卒園・入学を控え、しばらく平日にゆっくり出かける時間がとれなくなるため、都心に出て買物を楽しんでいた。
子は幼稚園卒園前最後の延長保育。15時すぎの電車に乗り園に向かうため、買物を終えて駅に戻り始めた14時46分。

関東の揺れは、46分から少し遅れて始まったのかな。中越地震で初めて体感した、遠方での大きな地震特有の、振幅の大きなゆるい揺れ。免震構造のビルで次第に大きくなる揺れはやがて立っていられないほどに。あ、これはマズい。とすぐに思った。
携帯電話は早々に繋がらなくなり、公衆電話からとにかく早く園に連絡しなくては…気持ちは逸るばかりだったが、ビルのスタッフがとても訓練が行き届いていて、フロアの客を危険の少ないエリアに集め、安全確認が取れるまでどうか動かないで、と。じっとしゃがみ込んだまま、天井から下がる案内のボードがフライングパイレーツのような揺れ方をするのが不思議でじっと眺めていた。
そこから2、3度の大きな余震を経て、小一時間後に待機が解除に。真っ先にすっ飛んでいったのは、運よくそこにあることを知っていた、同ビルの地下にある公衆電話。少し分かりにくい場所にあるため、その時かけている人がいるだけで、誰も並んでいなかった。
まず園に連絡し、我が子の無事を確認、すぐに迎えに行けないことを伝えた。続けて、当時我が家よりも園に近かった実家に連絡。幸いにも母が在宅、子のお迎えを頼むことができひと安心。少なくとも、いつになるかわからない私の迎えを独りで待たずにすむだろう。園に祖母が迎えに行けることを伝えて、あとは自分がどうするか、どうなるかの算段をやっとすることに。

このとき、夫は空の上。出張帰りの飛行機は空港に降りることができず、ずっと旋回していたと聞いた。

駅に向かう途中、食糧を買出しし、駅周辺で情報収集しながら再度公衆電話へ。母が子を引き取って実家に戻った確認が取れたため、その時点で徒歩で帰宅する選択肢を消した。
駅前のホテルが開放されていたのでそこに腰を落ち着け、携帯を充電したり報道を見たり(ここでやっと震源地の大きな被害を知った…恐ろしかった)。

夜になって、ようやく夫とも連絡が取れた。飛行機は被害のなかった空港へ回されて、その地で宿泊できるとのこと。子も夫も私自身より安心できる状況だ。非常時に、さしあたってわが身の振り方だけ考えればよいというのは、とてもありがたかった。

とはいえ、鉄道の復旧予定についての情報を待ちつつ、いつ来るか分からないタクシーの待機列に並ぶかどうかの検討をしながら、眠れない夜はじりじりと更けていった。

(後編へ続く)

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