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腐る経済 …書評というより、自分のはなし

FBで誰かがシェアしていた記事を読んで、読みたくなった。

読んだら、食べてみたくなった。

パパと休みを合わせて行ってみた。

山間の空気の澄んだ場所

とても気持ちいい場所

昔保育園だったところを改装して。

そしてわたしはタルマーリーを褒め称えてこのノートを終わりたい。
もちろんとっても素敵な所で、パンも今まで食べた中で、2番目に好きなぐらい美味しかった!1番好きなパン屋さんは、もうなくなってしまったから、今はタルマーリーのパンが1番かも、というぐらい。

…でもシンプルな感想が言えないのは、たぶんご近所のパン屋さんで、たまたま通りかかったような所ではなく、わたしが腐る経済という本を読んでから、なんらかの個人的なフィルターを持って、勝手に並々ならぬ想いを持って訪れたからなんだろうと思う。

昔、野狐禅という2人組のバンドが大好きになったけど、わたしはステージの下から彼らをただ眺めて、ファンレターを渡し、その他大勢のファンと同じようにライブが終わった後去っていきながら、なぜかとても傷ついていた。彼らが、同級生なら良かったのに。と思った。同じステージで、対等な立ち位置で、つまらない話がしたかった。なぜか、彼らの音楽を聴くだけでは満たされない感情がいつもいつも残った。彼らの音楽は素晴らしかったのに。

この感情はうまく言えないが、今回タルマーリーに行った後、少し似たような感情になって、それがなぜなのかを考えていた。


革命ということの渦の中心にいる人は、革命を起こそうとして革命を起こすのではなく、その人の信念の結果がただ波紋として変化に繋がるということなのだ、と思う。


わたしはそういう人に、昔から惹きつけられる傾向がある。ある時期、大阪のとある公園で、不法にホルモン屋台をひらき、不登校の子どもたちや、ホームレスの人々の面倒をみていたおっちゃんに惹きつけられ、しばらく通ったり一緒に過ごしたりした。わたしはそこで、ギターや沖縄の三線の流しのマネをして、チヤホヤされてる世間知らずだった。

ある日、沖縄の八重山で開催される唄の大会に、大阪代表ででないかと言われた。唄の名人が来るから、その人の前で歌ってみと言われ歌った。その人はウチナンチュ所謂沖縄本土の人で、全くもってかすりもしないソトナンチュであり、ただただ沖縄の歌が好きなだけの娘っこだったわたしに、「家を捨てて俺のとこに来る気があるか」と迫るのだ。わたしは「家を捨てろ」と言われたことが恐ろしくて、ただ恐ろしかった。

後から色々わかってきたことだが、この屋台のおっちゃんは、昔連合赤軍のメンバーだった。反戦、憂国、沖縄米軍基地反対だった。大阪は西成の三角公園で、日雇労働者に炊き出しをしたり、ライブをしたり、わたしもそのステージにたったこともある。わたしだって、反戦、憂国、沖縄米軍基地反対だった。

でも、そのスカウト?事件があって以来、その屋台から足が遠のいていった。
ある時久しぶりに、屋台に顔を出して、いつものラーメンを頼んだら、それまでいつもいつもおごってくれたおっちゃんの口から「ハイ、〇〇円ね」と言われて、ごく当然のことなのにもかかわらず、地面が崩れ落ちるようなショックを受けていた。帰りの電車で、涙が止まらなかった。

「ハイ、〇〇円ね」は、

「ハイ、あんたはもう、仲間はずれね」

って言われたみたいに感じた。
戦争や米軍基地に対して今すぐ反対勢としてのアクションを起こさなければ、そんなのは嘘だ。と言われた気がした。

20歳やそこらの時の話だけど、未だに引きずっているテーマなのだった。

わたしには信念がないことが、ずっとずっとコンプレックスなのだ。そして、信念がある人を仰ぎみて、憧れると同時に傷つくのだと思う。


タルマーリーの話に戻る。

タルマーリーの店主の渡邊さんは、長年菌と向き合い、菌から様々なことを学んでこられた。ほんとうのこと。ほんとうの天然ではない天然酵母という名前のついたパンが、資本家による過酷な労働力の搾取によって大量生産されていること。腐らない食べ物。それはほんとうの生命の在り方とはかけ離れていること。利潤追求しない、無理のない地域循環型の経済モデルを発想し、それを現実のものにしようと日々奮闘されている。ほんとうの菌は、ほんとうのものにしか降りてこない。渡邊さんも、ほんとうに、天然なムードをたたえた表情の柔和な素敵な人だった。奥さんの麻里子さんも、そんなご主人を支え、家族を支え、お店やお店のスタッフ、地域も支えようとされていて、さらに子どもたちの未来も。そういう頑なな決意が感じられる人だった。

彼らはとても、正しく真面目な人たちだ。今は発展途上でも、いづれ穏やかな境地にたどり着くような予感に満ちた場所で、人々だった。コミック版風の谷のナウシカに出てくる『森の人』のようだった。

そして、わたしは都会の家に帰りつき、ほんとうなのかどうなのか、あいまいなことだらけの暮らしに戻った。

家族でタルマーリーで買ってきたパンを食べた。みんなでなんやかんやいいながら食べた。これも、ほんとうの暮らし。

うまくいえない。

たまに、美味しいほんもののパンが食べたくなったら、またタルマーリーに買いに行けばいい。

うまくいえない。

森の人は、こんな嘘だらけのわたしたちを見捨てて、森の中へ去って行ってしまうかもしれない。

でも、ほんとうのことは、色々な表現で、それぞれのやり方で、それぞれがやればいい。のかもしれない。それは、もしかしたら、腐らない食べ物を食べながら話し合われるのかもしれない。体に悪いな、なんて思いながら、そこは優先されないのかもしれない。

今回の訪タルマーリーで、ほんとうのことっていうのは、何なのかを、歌にしようかというぐらいに考えてる。次の一歩なんだろうなと思う。いつも、いつだって、次の一歩なんだろうなと。

次の一歩は、信念のある先人にひっぱられる。でも、その他人の信念に負けないように。弱い人たちの王国の一員にはならないように。

とにかく、いろんなことを思ったし、まだ思い続けている。
まだまだ整理はできないが、矛盾した感情や現実についての諸々を一度文章で、自分でまとめて読んでみたかった。
そういう記録として。

資本主義経済の、いろんな意味で犠牲になった、今となってはじいちゃんばあちゃんになった人たちの余生、最期についても。これはまたの機会にまとめることにする。

素晴らしいパンたち。
ありがとうございます。


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