「ナメてる」を考える話
あからんです。
「ナメてる謝罪」を題材にしたなんらかをアレしています。
右も左もデスマーチだからこそnote書いちゃいます。
そもそも「ナメてる」ってなんでしょねを考える回です。
「ナメてる謝罪」の歌を思いついた
洗濯物を畳んでたらナメたテーマソングを思いついたので鼻歌を録音して、作曲家の友達のTwitterDMに送りつけた。
ワイ「ナメナメしゃざいナメプしゃざい ナメプ謝罪 謝罪じゃない♪」
なんとなく「こいつなら、こんな感じの歌をつくるんだろうなあ」と勝手に相手の考えが逆流してくるような感じでインスピレーションが湧いてしまいフルコーラス鼻歌ができてしまった。友達から返事がきた。
友達「おならしながら作るバイブスでいいんだよね」
ワイ「そうね」
おお…そもそもこういうクリエイティブが好きなんだよな、そういえば。
非常にナメた会話だけれど作曲家に鼻歌を送りつけるのも、おならしながら作るのも二人の間では全然ナメてない。むしろ通じ合っている。
ワイ「世の中ナメてるけど友達をナメてないやつらと生きていきたい」
友達「世の中の顔色は伺うのに友達ナメる人のほうが多い気がするよな」
ああ…なんかちょっと掘り下げてみたい概念だな。
「ナメてる謝罪」をより理解できそうな気がしてきた。
最もナメくさってる人間のセリフを見る
敬語を使っていてもナメてるなと思うこともあるし、完全に論理的な正論であってもナメられてると感じることもある。そもそも「ナメてる」とはどう定義されるのだろう?
それは最もナメくさってる人間のセリフを見るのが早道ではないかと思う。開発中の「ナメてる謝罪のゲーム」の中で私が最もナメくさってると思うのが「男性」キャラである。
ゲーム内のカードにはキャラクターが描かれていて、それぞれ性格や設定がある。漫画家先生に設定を詰め込んで送ったらすぐに「完全に理解した」というキャラデザが送られてきてマジでプロはすごいなと感心したものだ。
ともかくこの「男性」キャラが他と違うのは「学がないせいで結果的に人をナメてるわけではない」というところで、「改善のしようがあるはず」なのが一番腹立たしいのだ。クレームに対して対応する能力がないわけではない。ナメてる相手と向き合う気がないのだ。だから「まあこいつだからしょうがないか」とはなれず憎たらしい。要するにかわいくないのだ。
「男性」というキャラだけが「なぜ怒られているかを本当は理解している」からこそ「ごまかす」という行動に出ている。つまり真面目に取り合うこともできるはずなのに、あえてそれをしないという「選択」をしているのだ。
しかもこの「男性」キャラの「やらかし」の状況を見返してみてほしい。
そう…「親しい相手に失礼を働いている」という背景なのだ。
DV男とハラスメントおじさんの違い
「男性」の見た目は30〜40代男性、似て非なる推定50代以上男性の見た目であり「村人」キャラの「やらかし」は「誰に対しても失礼を働いている」という嫌われ者ムーブなのだ。
つまり「みんなこいつムカつくよね」という方程式が成り立つし、本人にも「それはハラスメントですよ」と面と向かってみんな言っている。嫌われてはいるのだけど、怒りをそのままぶつけてもいいのでガス抜きもおこなわれているのが「男性」キャラとの大きな違いだ。
もう少し掘り下げよう。「村人」キャラは「だっはー!ゆるされないのかよ、しゃあねえなあ、こんなことでよ」という姿勢なので、許されないこと自体は許容している。だから周りも「嫌い」だけど「憎い」かというとちょっと違う。「にくたらしーっ!」とはなるが、どこかかわいさがあるといえる。
対して「男性」キャラは「俺"も"悪かった」「そういう考え方"も"あるね」と言って「お前の視点だと俺が悪いのかもしれないけど、俺視点では俺は悪くないし許されるべきである上に、さらに別視点ではお前の方が悪いし間違っている可能性があることを考えた方がいいよ」ということを示唆している。
「自分が許されない」ということをまったく許容していないのである。
ここが「憎たらしい」と「憎い」、「かわいい」と「かわいくない」の違いを生んでいるのではないか?という仮説を提唱します。
謝らない男さんと謝らない女さん
次に「自分が許されない」ということをまったく許容していないという点で共通しているのが「女性」キャラである。
まず「やらかし」の状況から比較すると、どう考えても本人に非がある。
第三者が聞いても加害者の味方をしようと思わないだろう。「あやまり」も一貫して「責めないで」という姿勢である。セリフはすべて「悪くない」という主張にも聞こえるが、実は自分が悪いということはわかっている。悪いとわかっているから悪い?と聞くし、悪くない!というし、どうせまた自分が悪いといわれると自覚している。
ただ「どうして自分が悪いということになるのか」をわかっていない。
つまり被害者は常に同情され、加害者は常に責められる。加害者を守るのはヒエラルキーの力によって屈しているシンパだけで、常識的なコミュニティや会社の中では罷り通らない。いつか世界中を敵に回してしまって倒される運命にあるという決定的な弱点が「かわいさ」を産んでいる。
対して「男性」キャラの「やらかし」は事実確認が必要で、お互いの意見を聞いてみないとなんともいえないものばかりである。
「あやまり」も屁理屈だが論破をする口調で、倒されるとも限らないし、第三者がかならず被害者に同情してくれるとは限らない。それどころか「いやそれはおまえが悪いよ」「ちゃんと説明してくれないと本当に相手が悪いかわからないよ」となるかもしれない。
うまく説明できないと自分が悪くなる「こわさ」をはらんでいる。
要するに「クソ女」は誰も味方しないコミュニティ外では全人類共通の敵として認識されるのだが、「クソ男」は具体的にどう「クソ男」であるかということを立証しないと味方をしてくれないという面倒臭さがある。
一言でいえば「クソ男」は「ダルイ」のである。
ウザイはかわいいがダルイはかわいくない
「男性」キャラと共通点のある「世間の嫌われ者の老害」と「世間が誰も味方しないクソ女」は被害者が被害者然としていられるから救いがある。
公然とクソであるといえる気持ちよさがある意味かわいげを産む。
また比較に出さなかった他のキャラはバカ、アホ、ドジ、マヌケであり欠点だらけでウザイといえど弱点の塊みたいなキャラたちなのでかわいいやつらである。
むしろアニメやマンガのキャラクターでもそんなやつらは愛されていたりしないだろうか?と思う。鳥山明先生著『鳥山明のヘタッピマンガ研究所』にそんなことが書いてあった気がする。
ウザイとダルイの違いは何か。ウザイというのは相手しなくても問題ないがダルイというのは追い払うことができない。「あ〜も〜やってらませんわ」では済まないのがダルイである。
ゲームの中でかわいいキャラがいたとする。そしてかわいいキャラがちょこまかしていて完全にジャマになるとする。しかしおしのけるなどしてジャマを解決できるとする。これが「ウザイ」状態だ。足を引っ張るが対処可能な事象が「ウザイ」。これがジャマしてるのをどかすために複雑な手順を踏まないといけないとする。これが「ダルイ」である。
ナメてる態度はウザイしダルイ
以上のことから、「ナメてる」=「小馬鹿にしてる、下に見てる」という言動が生み出す要素には「ウザイ」や「ダルイ」が存在する。そして全キャラ中で最もナメくさってる人間は「ウザイ」し「ダルイ」のである。
なにしろ普通にコミュニケーションをとるときでさえ、間違えたり忘れたりするから何度も確認したり、図やグラフを用いてすり合わせしたり、手間をかけて意思疎通ができるのである。それなのに、さらに「ナメられてる」というハンデが課されていては相手などしたくなくなる。
その中で一際困るのが「避けられない状態」で、相手をしたくないが相手をせざるをえないというときだろう。
他人の言動に「ウザイ」と思ったとき、それこそがナメられてるシグナルかもしれません。さらに「ダルイ」と思ったときは、親しい間柄だからやっていいだろうと、ナメられてる上に利用されている可能性があります。
冒頭の「世の中の顔色は伺うのに友達ナメる人」を見抜く危険信号とは、「ウザイ」+「ダルイ」と感じる人である、というのが今回の結論です。
逆にナメてないってなんでしょね
冒頭の「ワイと友達」に話を戻します。
「いきなり作曲家に鼻歌を送りつける」はナメた「やらかし」である。
「おならしながら作る」もナメた「やらかし」である。
でも2人はこれで最速最良の意思疎通をしている。
正式な手順を踏んで連絡して、仕様や条件のすり合わせをして、などなどとナメてないコミュニケーションをすると、逆に手間がかかる間柄なのだ。
意思疎通のルールが常識を超えているのは関係が構築された結果である。
当人同士に最適化された常識によるコミュニケーションは世の中から見たら「ナメている」言動だけれども、当人間では「ナメていない」。
相手をナメていないからこそ、最も良い形が何か?を突き詰められたのだ。
相手を理解したつもりになって、自分が考えたことが最良であると勘違いをしている人間こそが、最もナメくさってる人間とされるのは当然である。
究極の「ナメてるやらかし」
これはおまけの話。「ナメてるやらかし」の中で一番の「やらかし」とは何だと思いますか?
「やらかし」の種類もキャラごとにジャンルが違う。「ビジネス」のジャンルのカードは当初作ったあとに、システムの都合上1枚多く作ることになった。そのときに最もやらかしレベルの高いカードは「5000兆円使い込んだ」と「会社を物理的に消滅させた」だったのだが、1枚増やすときに2枚の内容を超越したやらかしを作るかとちょっと考えることにした。
その答えは「信用」である。カネは稼げば戻ってくる、モノは買えば戻ってくる。でも「信用」は失ったら戻ってこない。一度完全に信用を失ったヒトが戻ってくることはない。カネを稼がせてくれるのも、モノを売ってくれるのもヒトである。それでも実際問題この世に信用を失ったであろう者も跋扈しつづけはする。ヒトの数は膨大だから。でも誰かの信用を完全に失ったという体験、思い出は消えないことでしょう。特に親しい相手をナメて生きていたら、いくら地位、名誉、金銭を手に入れたとしても、罪悪感が消えない不幸せな人生を送るんじゃないだろうか?といささか心配すら覚えますね。
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