六月雑記
暗い帰り道、ここから家までは私しか通らない一本道を、ノンアルコールビールを飲みながら歩いた。
何が本当かわからなくなった。
※思いを、思いのままに書いたので、流れがぷつぷつで、読みにくいかもしれません。
テレビで(ライブでも)大喜利を「苦手でやりたくない」と言って嫌々やっているのをたまーに見る。ちょっと悲しくなる。好きでやりたい人がたくさんいるのに。
その悲しみは、
苦手だと言う人に対してか、
苦手な人にさせる、そんなに苦手でなくても苦手だと言わせる番組作りに対してか、
代わってくれと言える価値や実力が無い自分に対してか。
全てに対して少しずつかもしれない。
「苦手でやりたくない」と「苦手だけど頑張ります」は違うけれど、ここで言いたいことにおいては同じで(「苦手だけどやりたいです」は別。やりたい気持ちがあれば得意苦手関係なく良い)、そもそもどうして苦手な人に無理に大喜利をやらせるのか。
そのほうがハードルが下がって笑いやすいのはわかる。でも、ハードルを下げなくても面白い人はたくさんいる。
極端な例で『売れている人の面白くない答え』と『売れていない人の面白い答え』のどちらが面白いか。
※流れぷつぷつですね、すみません。
テレビでは『売れている人の面白くない答え』のほうが面白いし見たいとされているのだろう。見たい、を広く集めることがテレビにおいては重要だ。
大喜利が、無茶ぶりのための道具として使われているのが悲しい。青汁生産者はこんな気持ちなのだろうか。
(無茶ぶりも込みでお題になっているのは別。有吉の壁の大喜利は楽しい。)
なんて書いているけれど、たまーに見かけるだけで、ほとんどは『とても売れている人のとても面白い答え』と『売れている人の面白い答え』と『売れている人のそれ面白いけれど聞いたことのあるパターンの答えを消化して自分の思考を通して血肉にせずにただなぞって出しているだけだろ答え』。
5段階評価で、
ネタ4大喜利3の人はテレビでネタを出来る場がある。
ネタ3大喜利4の人はテレビで大喜利を出来る場がない。
若手の登竜門的な大喜利の場がない。
(芸人の基本業はネタだから当たり前ではあるけれど、面白いものを生み出すという点ではネタも大喜利も同じところあるから、ちょっとくらい場をわけてくれたって、作ってくれたっていいじゃないっていう、ね。)
テレビでの大喜利は、売れた人にだけ許される遊びか無茶ぶりのひとつ。
面白いし楽しい大喜利を観たい。大喜利を楽しんでいる姿を観たい。これが一番の気持ちだ。わちゃわちゃの楽しさと挑む楽しさ。テレビでの大喜利は決勝戦しか用意されていない。予選もやってほしい。ごく限られた人に声のかかる予選ではなく、開かれた予選をやってほしい。2016年のD関のプレ予選に出れてよかったな。挑む楽しさがあった。全く歯が立たなかったけれど。
大喜利に触れる場は、内Pみたいな、リンカーンの朝までそれ正解みたいな、座王みたいな、大喜利が肯定されている場であってほしい。
※大喜利を好きな気持ちをぐいぐい出さないほうがいいのはわかっています。もっと芸歴を重ねたら、大喜利金魚をびっくりさせない水温になるまで置いてから水換えができるようになると思います。
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