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Forget-me-not

一週間で三人の方をお空に見送った日々が過ぎた

その話になると
九割九分九厘

でも良かったんじゃない?
亡くなるその直前まで
普段通りに作業所に行っていたんでしょう
苦しい時間が短くて

概ねそういうコメントで最後は
誰もが同じように締めくくる

多分私も以前ならそう思ってそう口にした
遺されたものにとっては
前向きな言葉が必要だから
何故という答えのない問いに
自分を納得させたいから

でもどうしようもなく押し寄せる違和感に
どうしても抗うことが出来ない
黙っていることが出来ないで
口にしてしまう

本当にそうなのかなと

本人はどう思って亡くなったかは
本人が言葉がなく逝ってしまった以上は
分からないんじゃないのかな
それを、よかったという
こちらmatterの言葉で
都合よく幕を引いていいのかな

本当はもっと生きたかったと
本当は痛いよー助けて―と
言っていたのかもしれないし
今日も作業所に行くつもりだったかもしれないし
給食のドリアを食べるつもりだったかも
死ぬなんて毛の先程も思っていただろうか

死にたくなかった
生きていたかった

何歳であろうと
痛みがあろうとなかろうと

よかったなんて
人がなくなったときに
他人が言えるの??

職場でそう口にしてしまって
思い沈黙がフロアを包み
誰もが口をつぐむ

ごめんなさい
空気悪くするのもわかって言ってる
怒ってるんじゃない
責めてるんでもない

ただ自分のことを思うと
これで良かったとはミリも思わなかったし

大したことじゃないけど
洗濯物取り込んでないなとか
あたしのパンツどこに行ったのかなとか
今何時かなとか
娘らは心配してんのかな
夕飯食べたかなとか
そのままにして置いてきてしまった日常のことを
側にいない人のことを
もう一回会いてえと
神でも仏でもと祈り始めたことを思い出す

けれども

振り返りの総評みたいなことは
本人絶対してないと思うんだって

良かったと言ってしまったら
何かできることがあったんじゃないかという
責任から逃れられるし
思い出す時の棘もないから
摩擦係数は低下
忘却には好条件

だから
忘れない
覚えているためには

良かった
じゃなくて

どうだったのだろうと
思い続けること
答えを出して総括してしまわないことしか
生きてる人間と
お空に旅立った人たちと
繋ぐ糸はないんじゃないかと

そう思うと
赤毛の吐くこの糸は
亡くなった人や
もう会えない別れた人と
記憶を繋いでいるのかもしれないと
思う金曜日の雨の朝





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