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濱村健君のこと

生きることと
死ぬことは
2つの端緒
繋がっていると思うので
生きようとするなら
死についても
考えない訳にはいかないと思うので

死生観というと大袈裟だけど
死に遭遇して自分の感じたことを
書き残しておこうと思う

人生で最初に人がもう生きていないということを目撃したのは
父方の曾祖母が亡くなった時だった

父は実家と疎遠だったから
年に一度年始の挨拶にしか自分の実家には帰らない人だったから

私も年に一度
生きているときから小さくて皴皴でミイラみたいな
曾バアチャンに会うのが実は怖くて

よく来たねなんて話しかけられると
ヒイイイイ、喋ったああ、バアチャン生きてるんだと
半泣きにビビっていた

だから小5の時に曾祖母が亡くなって
布団の上に横になっているのを見ても
実感がわかなくて

葬儀の間も焼き場でも
暮らしたことのない
生活感のない人との別れを
どう悲しんでいいのかわからずに
途方に暮れていたのを

思い出す

けれども
四半世紀前の
濱村健君の死は
私にとって初めて
人が一人いなくなる喪失、悲しみの大きさを思い知って
その後何十年たってもこうして忘れることができない

健君は小学校三年生の時のクラスメートで
軽度の知的障害と
生れつきの心疾患と、
筋力が弱い難病があった

お母さんがお習字の先生で
家にはいつも沢山の子供が集まっていて
勿論子供心にも健君には障害があって
自分達とはどこか違っているということは
分かっていたし
一緒には遊べない遊びもあったけど

健君が一枚その場に噛んで
緩やかに人と繋がることを
お母さんが上手に作っていたのかなあと
今になってみると思う

その後数年して
彼も私もその街から
引っ越してしまったけど

文通は続いて
年に一度は元町の喫茶店でお茶したり
中華街でランチしたり
成人のお祝いには青いリモージュ焼きのコンパクトをプレゼントしてもらったのを今でも覚えている。

健君は高等部を卒業すると入所施設に入ったので
私のご縁の中心はお母さんになったけど
いつも手紙は
和子さんへ

健君へ
の二通シタタメていた

就職して三年目の11月3日だったかな
お母さんから嗚咽を噛み殺しもせず
間違い電話かと思うような
変わり果てた声で電話があって
用をなさないのだけど

とにかく、健君が亡くなってしまったと
うちに来てほしいと
頼まれた

次の休みの日に飛んでいった

真っ暗な冷え切った部屋で
お母さんは泣きはらした顔をしていた
話を直接聞いてみて
10月23日の祝日に一時帰宅した健君は
いつものように大好きなお風呂に1人入ったらしい

そしていつものように長風呂していたらしい

でもいつも以上に長風呂で出てこないのを不審に思ったお母さんが
いつものようにそろそろ出なさいと
声をかけようと様子を見ると
浴槽の中で健君は溺れていた

元々の心疾患
筋力が弱まっていく病気
心臓がゆっくりとビートを刻むのを止めた

大好きなお母さんのいる家で
お母さんの目の前で

365日のうち360日くらいは施設で暮らしているのに
滅多に家には帰ってこないのに
そのたまたま帰ってきたその日に心臓が止まらなくてもいいのに

お母さんの後悔
どうして息子が目の前で心臓が止まっているのに
自分が気付かなかったのか
愛して育ててきた息子が逝くのを黙って
みてもいなかったのか

責めて責めて泣き続けるお母さんに
掛ける言葉がなかった

形見分けに貰ってちょうだいと
彼が帰宅すると使っていたというティーカップで
紅茶を飲んで
そして家に連れて帰った

小学校の時に一緒に行った砧公園のスナップと
小学生の時に共に祝ったクリスマス会の写真をいただいた

それから恩師の河本先生に連絡を取りたいのだけど
知らないかと言われて
私も渋谷区の住所までしか繋がっていませんと答えると
その先の行方は転任されてから
誰も知らないのよねと肩を落とされて
その後も行方を探したけど見つからなかった

健君がいないということそのことだけじゃなく
人が死ぬということが
残された人にどれほど大きな穴を残すのか
いなくなるということが
どれほど悲しくて寂しくてやりきれないものか
変わり果てたお母さんの姿に思い知った

実は健君には創という弟がいて
なかなかヤンチャで
お母さんをいつも困らせていたのだけど
健君が亡くなってからは
心配で創としばらく連絡を取り合っていたけど
彼が見事に母親を支える存在に
変わっていくのを横目に見て
こういう風に亡くなった人が
生きている人たちに残していくものもあるんだと
思ったりもした

彼は25から年を取らなくて

私が仕事を翌年の春にやめた遠因にも
多分健君の死があるというか

死は突然に訪れて
次の瞬間に何があるか分からないんだという
諦めというか
だからその時々で自分の思うように選んでおこうという
短絡的なワカリヤスサも

きっとその時にジーッと考えて
身につけたのかなと思う

毎年10月23日は命日で
蝋燭を点して冥福を祈って
形見のカップでお茶を飲んでいるよ

去年はね
新幹線が止まっちゃってね
山梨経由で帰ったから
標高が高かった
お空にも近いなって
思って祈ったよ笑
















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