「世界一のクリスマスツリー」が結局なんだったのかわからない人が書いた感想文

前置きから関係ない話するんですけど。

私、この人に会うために生きてきたんだなって思うことって、あるじゃないですか。人生の話です。

人だけじゃなくて、このちいさないきもの、目の前の素敵な作品、本、映画、公園の木、街の景色、そういうもの、そういう何かが溢れてると思うんです、この世界には。

たとえば私が今の自分と違う性別で、違う国に、違う時代に生まれてたとしても、この人にだけは、どういうタイミングになるかはわからないけど、私はこの出会いをその人生でも必ず求めていたはずだと。そういうふうに信じられる出会いを”幸福な巡りあわせ”と呼ぶとして、次の話。

そういう出会いは、選べませんよね。人間にそんな自由は与えられていない。そして、不幸な出会いもある。なんの因果かわからないけれど、不条理としか思えない辛くて悲しい何かと向き合わないといけない日々もある。

幸せな巡りあわせだけを選択できる人間は、いない。そして不幸な巡りあわせの割合が圧倒的に多いのがこの世の道理。

親、親戚、学校の同級生、就職した先で出会う人、街ですれ違う人。人と人は大概、すれ違って、噛み合わない。不幸な巡りあわせの中に、ほんの少しのささやかな幸福な出会いが混ざっているだけ。

ここまでは物事の順序を考えたときの、いちばん手前に来る話であって、私がこれからする話は、この前提から派生します。この前提があるから、人間は不幸な出会いをなるべく避ける方法をいつも考えてるし、大人なら自らが不幸な出会いを引き起こさないように責任を持って発言しようね、お互いのために気を遣って行動しようね、という話につながっていく。

長い前置きおしまい。

前提の話をしたところで、先に本題の結論めいたことを言います。

世界一のクリスマスツリーによって引き起きたことは、ある種の"引きあわせ"がもたらした、不幸な出会いの結果だったと私は考えています。対立した二者のどちらかが悪者だと断罪するつもりはありません。もちろん、どなたか個人の人格を攻撃する気もありません。あれは「不幸な出会い」の結末だったと言っているのです。

そもそも世界一のクリスマスツリーってなに?という方がいると思いますが、知らなくてもこのまま読み進めていただいて構いませんし、知らないから続きを読む気にならないんですけど、という方には参考までに関連リンクを貼りますのでご査収ください。

世界一のクリスマスツリーPROJECT公式
http://www.soratree.jp/

木さんのnote
https://note.mu/bekobe150/n/nf5a66ae2e193

プラントハンター西畠清順氏が田中康夫氏提訴
『世界一のツリー』虚飾が“炎上”招く
田中康夫氏によるブログ
http://tanakayasuo.me/tree

BUZZAP「世界一のクリスマスツリー」神戸の生田神社にて変わり果てた姿が確認される
https://buzzap.jp/news/20181210-xmas-tree-kobe-torii/

いいなさん検証ブログ
http://iina-kobe.com/entry88/

検索すればいくらでも情報が出てくるので、詳しい経緯はここでは説明しません。

それでは、本題に入ります。これは、とある不幸な巡りあわせによって生まれた対立や分断の話、そして私の個人的な感想文です。

本件、2017年冬から始まり、現在に至るまで話が終わっていないどころか、いろいろなことがありすぎて正直まとめようがないのですが、以下の登場人物をざっくりと紹介します。

(1)プロデューサー西畠清順
(2)有名企業の代表者(フェリシモ・ほぼ日)
(3)神戸を見守っている人(小説家、芸術家、政治家など著名人を含む)
(4)有名タレントや歌手をコミットさせた芸能プロデューサー、後援の政治家や行政関係者や宗教家、コンサルタント、メディア関係者etc.

ちなみに私はこの登場人物のどれにも当てはまっていません。観客の立場で語ってる人だと思ってください。これは観客による”感想文”です。

この話を追いかけて、いろいろな出来事が起こるのを見てきたわけですが、結局のところこのイベントが、誰が何をなんのためにやりたかった企画なのか、私にはいまだによくわかりません。話がコロコロ変わって、思ってたのと違う結果になって、みんながみんな、おかしなことになったのかな、と思います。

大きな木を飾って、わいわい遊んで盛り上がって、いろんな人を巻き込んで、みんなで楽しいクリスマスを過ごそうよ!という、完璧な善人の発想、というかその"正義"は何も間違っていない、むしろ正しい、その発想に何も悪意が無いことは当然”みんなが”理解しているという認識でいるし、それが間違いだというつもりはありません。逆張り発言をして煽る意図は全くありません。

では、何がどうなって”おかしなこと”になったのか。私はこう考えます。

本件の登場人物どうしは、互いに無関係でいられれば何も問題はなかったのに、とくに登場人物(3)が望まない出会いと引きあわされてしまった。このことが不幸のはじまりだったのではないでしょうか。

誰が、なぜ、引きあわせたのか、という要因こそが、今後同じ不幸を起こさないために私たちが考え、課題とすべき点だと思います。

しかし、今や、この課題を社会に向けて広く共有することは、ほぼ不可能に近い状況なのです。その理由に、登場人物(1)(2)による印象操作が行われたことが挙げられます。

「可哀想だから木を切るな」というトンチンカンな難癖をつけてくる迷惑な人。自分たちの正義に酔いしれて楽しく遊びたいだけの人を引きずりおろそうとする、ふしあわせな、可哀想な人。イベントの趣旨に対し疑問の声をあげていた登場人物(3)に対しそんな印象操作が行われてしまったため、直接の関係が無い立場の、一部の人は多いに誤解をしました。直接の関係が無いとは、登場人物から外れている、自分のような観客のことです。本当に140万人もいるのかどうかわかりませんが。

登場人物(1)はともかく(2)の発言力は当時、かなりのインパクトがありました。実績と権威を持った立場の方の発言です。この話に (2)が登場していなければ、この問題の世間での扱いは小さく収束して、今頃もう忘れられていたかもしれません。

ですが、もはや、観客たちに与えられた誤解を消すことは、誰にもできないのです。おそらく、登場人物(1)(2)、あるいは(4)が今さら何か訂正したところで、変わらないでしょう。時間が経ちすぎました。

「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉があります。その通りだと思います。権威や権力。大衆を操作する、目に見えない、大いなる力。そういったものに、立場の弱い人は抗うことなどできません。

この件に巻き込まれて誤解している観客もだし、誤解を受けている登場人物(3)も、ただ大いなる力に翻弄されるしかないのです。

人間というものは、臨機応変に手のひらを返すことはあっても、性質上、根本的にはなかなか変わらないものです。一度起きてしまった状況を変えるのは、容易なことではなく、しかも立場の弱い我々のような人間ならなおさらです。

誤解している観客が誤解を受けている人(3)を攻撃するのは、本当に時間の無駄です。しょうもないこと以外のなにものでもない。誤解を受けている人(3)が終わりのない闘争に巻き込まれること、これも虚しいことですが、おそらく無駄です。私の主観ですが、人間は決して、いいほうには変わらないからです。

印象操作によって誤解した観客が誤解を受けている人(3)を攻撃するという事態になったのも、これも結局は、不幸な引きあわせによるものです。誰が悪い、誰のせいだという話ではないのかもしれません。

結局みんながみんな、立場の弱い、流されるだけの人間だからです。ただそれだけの話です。

でも、じゃあ、登場人物(3)の立場の人々は、このままやられっぱなして、泣かされただけで、これで話は終わりですか?弱いから負けただけだと小馬鹿にされ、諦めさせられるしかないのでしょうか?悔しいけど、しかたないと、このまま黙ることが賢明な判断なのでしょうか。

登場人物(1)(2)(4)の人たちは、ずーっと黙殺しています。シカトしてやり過ごしています。

私は観客の立場から考えます。黙るのが賢明な判断か。そうかもしれない、虚しいな、全部が、と思う気持ちもあるし、それは嫌だ、じゃあ人間の尊厳ってなんなんだよ、抗う姿勢を無くしたくない、という気持ち、両方とも抱えています。それがいまの正直な気持ちです。

勝ち負けの話じゃないし、白黒はっきりつけられるものじゃないし、誰もそんな権限は無いし、起きてしまってもう取り返しのつかないことをあれこれ言ってもしょうがないし。

喧嘩するつもりないし、攻撃してるわけでもなくて、ただ不幸な巡りあわせで対立させられてるだけなんですよ、みんな。みんなが。

全てがとても不毛なので、どうにかならんのかなあと思うのです。でも、ほとんど諦めてる自分もいて。せめて誤解している観客の皆さんは、木さんやそのほかの登場人物(3)の人たちが本当はどんなことを言っていたのか、何があったのか、知ってほしいとは思いつつ、でも無理やろうなとも思っていて。

一応、リンクを貼ります。神戸を見守っている方々の意見は以下をご参照ください。
https://note.mu/bekobe150/n/nf5a66ae2e193

まあでも、今さら誤解はどうにもならんやろと思う。なぜかというと、誰かが悪いとかじゃなくて、人間ってそんな大したこと出来ないし、変わらないと思って、期待してないからです、私が。この場合は、人間というか、大衆の話ですね。あくまでも私の主観の話です。

登場人物(3)が批判するふりをして拳を振り上げてるという思い込みは、もう捨ててほしい、それがみんなのためだと思う。でも、私は誤解している観客を今さら責めるつもりはありません。誰も悪くない。不毛な争いに巻き込まれる人を見るのはもう嫌です。これ以上、いろんな人が巻き込まれることに意味はありません。

起きてしまったことは誰にもどうにもできないから、せめて、何があったのか物事の原因を振り返ってよく考える。私たちには、それしかできません。すべてに対して正しくあることは誰にもできないけど、公平であろうと努めることはできるはず。何のために、何をするべきか、これからのことを考えるために。

誰かと誰かを引きあわせる力というのは、誰でも持っている力ではありません。それこそ、特別な人間だけが持っている権威や権力のなせる技。そこに大衆が、無力に流され、巻き込まれていくのがこの社会の姿で、それはこの先もずっと変わることなどないでしょう。

なぜ、あんなことが起きたのか。
なぜ、対立が生まれたのか。
なぜ、話しあいの機会が失われたのか。

物事には順序がある。誰かに攻撃されていると感じていたり、腹を立てて報復攻撃をしかけようとしている人がいまだにいるなら、話の道筋をたどって、振り返って考えてほしいです。

観客の立場でしかないこういった私の発言でさえ、なぜか石を投げつけられました。黙れ、ということなんでしょう。自分なんて、なんの発言力もないし、大それたことは何もできないのに、変な話なんですが。

なので、何回も同じことを言ってるんですが、また不穏な動きがあったとしても、私は誰とも喧嘩するつもりもないし、無駄な争いはしません。何回言っても伝わらないと思いますけど。ただ、本当によく考えて。何に巻き込まれているのかってこと。私も、あなたも。みんなが。

などどいう、これらの話をね、いくらツイッターで書いてももはや一切伝わらなくなっちゃったんですよね。あはは。誤解してる人は私のツイッターのアカウントをミュート+ブロックしてるし、なにがほんとでなにがうそかわからないアカウントがツイッター上に大量につくられてるし。
※この話については、おすしさんのブログを参照ください。

プラントハンター西畠清順氏とそら植物園を擁護する大量のスパムと思しきアカウントが、twitter炎上対策(?)およびステマを試みているのではないかという疑問に基づき、記録します。
https://osush1.hatenablog.com/entry/2018/12/14/234041

本件はいつの間にか、嘘と虚飾に彩られた、悪趣味で、冗談みたいな、下手なコントみたいな、そらぞらしい話になってしまった。現実に、悲しい思いをした人がいるにも関わらず。

私は、誰とも戦ってないし、誰とも張り合ってないし、喧嘩売ってる訳でもない。自分の立場の弱さをよくわかってるつもり。誰からも忘れられて、誰からも注目されてない人間だと認識している。ただ、目をそらしてはいけない問題がここにあるんじゃないか、これは自分にとっても心当たりのある問題なんじゃないかという、当事者意識を持ってるだけ。登場人物から外れた観客だけど、決して傍観者じゃない。

大衆はチョロいので、一度でも「こいつは攻撃的で質の悪い人間です」というレッテルを貼られると、それだけで立場も何も、一切伝わらなくなっちゃうんだな。

攻撃的な人間ってレッテル貼られて、何言っても伝わらないし、無視されて、小馬鹿にされて、疲れるにきまってるだろうがよ誰だってよ…という気持ち。本当、無力感しかない、正直。それでも、私は、傍観者になりたくないんだ。善人ぶった言い方かもしれないけど、見捨てたわけじゃない、忘れたわけじゃないんだって、伝えたいんです。これは、この話の登場人物全員に対して言いたいことです。

謝りなさいよ!とは言わないけどさ、これってただの弱いもの虐めでしょ。

ネガティブな印象のレッテルを貼って、黙らせて、孤立させて。自分は誰に何を言っても何も伝わらないんだっていう立場にひとを追いつめるのは、イジメなんだよ。わかってるだろうけど。

私には誰かを責めたり攻撃しようとする目的や意思はありません(しつこくてごめんなさいね)。ただ、不幸な引きあわせがあったこと、観客としても、あんなことに二度と巻き込まれたくないという意思表示をしているだけです。あのとき誤解されたままでいる人たちを見捨てないという私の意思もあわせてお伝えしておきます。

ここまで長文でつらつら書いたところで、何を言ってももはや何も変わらないのかもしれない。というか、この先もずっと無視されるだけなのはよくわかってるので、何も期待してなどいないんですが、ただ実を言うと、自分にはとても幸福な巡りあわせもあって、虚無感も時にはあるけれど、でも私はこの引きあわせをもっと大事にしていきたいと思っています。

SNSは怖いと言われることが多いです。たしかにそうですね。分断を煽られて、対立させられて、大衆の憎悪感情を拡散する機能を持ってる面がある。でも、ネットは完全に現実と離れた空間ではないわけ。というか、現実と同じ。不幸な巡りあわせも、幸福な巡りあわせも、両方ともある。石を投げられたら血を流す人間がいる。その点、現実と何も変わらないでしょう?

最初の前提の話に戻るけど、ひとは幸福な巡りあわせを選択することは出来ないし、不幸な選択肢を避けることも出来ない。そして、いつかはすべて終わる。えらい人もえらくない人も皆同じ。

不幸な巡りあわせがあって、いじめられてみじめな気持ちになって、なんでこんなことが起こったのか考えていくのも虚しくてしんどいんだけど、でもそれとは別に、幸福な巡りあわせだって、確かに存在してると私は思う。

ネットが怖いのは、現実と同じ。思い通りになんかならないよ。でも、幸福な出会いが存在し得るなら、支えあって、労わりあうことだって出来るはずなんだよ。私なんかでも、ツイッターでは石を投げられもしたけど、見てくれてる人はちゃんといて、労りの言葉をかけてもらえたこともあるし、ひとの優しさを感じて、生きていく力を与えてもらったりしているわけです。

だから、この文章を読んでくれてる人へ、私は伝えたい。私のこの文章を少しでも気にかけてくれた人へ。そう、あなたが誰だって関係ない。私を黙らせたくて腹が立って仕方ないかもしれないけど、ここだけでいいから聞いてほしい。私はあなたに感謝します。世の中の大多数にとって、存在してないのとほぼ同じ、取るに足らない人間であるところの自分の言葉を、受け取ってくれてどうもありがとう。

ありがとうという気持ちを伝えられるのもネットがあればこそだから、この場所はそんなに言うほど怖いところじゃないと思うよ、私はね。

これで私の感想文は終わりです。ご静聴ありがとうございました。フザケンナ、意味不明だ、やっぱり誹謗中傷だと、思いましたか?不快ですか?私は、私の言いたいことの意図が文字の通りにきれいに他人に伝わるとは、微塵も思ってないんだ。この言葉が移動する瞬間にきっと大量のノイズが混ざるので。期待もお願いもしません。だからあとは、受け取った方が解釈してください。

以上です。よろしくお願いいたします。


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