わかったようなわからないような話

仕事をサボってエッセイを読んでいた。
一時間ないぐらいで読み終わって、面白かった。

夕飯を食べに街へ出て、歩きながらさっき読んだエッセイのことを考える。
面白く読んだのだけれど、”想像の余地が大きい箇所がいくつかある”ことが気になった。

おれはこれまで、あんまりそういう”余白の大きいテキスト”を好んでこなかった。
事実に対して新たな発見がある、出来事に対しての思考過程を述べ、物事を整理するためのテキストをエッセイだと思っていたし、余白の大きいものは「私小説」ではないかと思っていた。
(その中で、ユーモアがあれば”より読みやすい”からユーモアをまぶすのだと思っており、UIの一種だと考えている)

調べてみると、私小説は「作者が直接経験した事柄をベースに、ほぼそのまま描写された小説」を意味し、エッセイは「自由な形式で、気軽に自分の意見などを述べた散文。随筆。随想。」とのこと。

なんと真逆である。そういう意味で”想像の余地が大きい箇所がある”というのは正しくエッセイであると言えるし、おれが普段”これ面白いエッセイだなー”と思っているのは私小説だったということもわかる。

まあとにかく、そんなわけでエッセイらしいエッセイを読んでこなかったのだけれど、それはつまりエッセイらしいエッセイを”書いて”もこなかったということである。

じゃあ、書いてみたらいいんじゃない?
と思ったので、書いてみることにする。

余白というのはつまり、プラスアルファの部分だ。
本筋に対して、プラスアルファが連なっていればそれは余白となる。
おれにとってテキストというのは”意味”そのものだ。

意味の余白とは?
”意味の有無の境界線上”にあるもの、つまり”わかったようなわからないような話”が入ってくると、それが余白になる。

例えば、こういうことを考えながら街を歩いて、たまに行くラーメン屋さんに寄ったらPayPayが使えなくなっていた。
そんなことが起こっているなんて予想もしていないし、財布は置いてきてしまった。
渋々ちょっと離れたところにある別店舗に向かったのだけれど、結局人生ってこういう遠回りみたいな物かもしれない。

というようなのが”余白”だ。
ほんとか?

あんまり長いのもしんどいので500文字〜1000文字いかないぐらいがいいですね(とか言ってもうちょっと超えてるけど)
別店舗で無事PayPayが使えたので美味しくラーメンを食べて帰ってきました。
ちょっと歩いてよかったね、つまり人生ってそういうことなんですよ。

わかったようなわからないようなことばかり言いやがって。

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