「退職のご挨拶」。
「退職のご挨拶」
というタイトルが社用メールボックスに並ぶたび、ああ、またか…という気分になる。
「宛先多数のためBCCで失礼します」なんて枕詞から始まる、その「挨拶」の文面は、どことなく既視感を覚えるフォーマットで成り立っている。
業務上、全く関わりのない部署も、名前も初めて聞くような人からの「挨拶」。
それでも、この会社を去っていくのだと考えると、自分と社会とを繋ぐ糸のようなものが一本、また一本と断たれていく心地がする。
今は、業務上関わりが無かったとしても、今後いつかは関わったかもしれない。
でも、そんな可能性さえ断たれていく。
それが、名前ぐらいは聞いたことがある人、あるいは一度でも業務上で関わった人、顔も名前も知っている同期だったりすると尚更である。
たとえるなら、自分の核にあたる部分―心臓とか大脳とか―から伸びている、一番太い糸をバッサリ断たれるようなもの。
実際、同じ年度に入社した同期も既に何人も退職し、そのたびに、突然すぎる「退職のご挨拶」を受け取ってきた。
よく、入社3年以内の離職率が5%未満だと優良企業、なんて指標を目にするが、過去に受け取った挨拶の数をその指標に照らし合わせてみると、(なんとなくではあるけれど)結構いい勝負いくんじゃないかと思えてしまう。
個人的に、同期との関わり方がどうだったかというと、遊びや飲み会を通じてガツガツ関わっていく…というほうではなかった。あくまで仕事仲間、という線引きを、どこかしらで行っていたのかもしれない。
だからこそ、入社後の育成期間を終えたあたりから、それぞれのチームでリーダークラスに成長した同期たちと仕事で関わる機会が増えてきたことが、実は結構楽しかったりした。
他部署との折衝など、どうしても身構えてしまうことが多いけど、同期とのやり取りであれば「敵」ではなく、「仲間」としての意識を持って対応できるからだろうな、と思う。
会議の出席者に同期の名前があったり、他部署への問い合わせ時に紹介された担当者が同期だったり。逆に自分も同期から質問を受けたり…。
昨今はリモートワークが増えたこともあり面直で話す機会も減ったので、相手が自分を同期として認知してくれていたかは分からん…というのはまだ別の話。
つい先日もまた、「退職のご挨拶」が届いた。
この時期は色々と転換期ということもあり、こういう挨拶も頻繁に飛び交う。
半ば麻痺していたのかもしれない。「退職のご挨拶」慣れしていたのかもしれない。
差出人の名前を見て、目が覚めるような思いだった。
自分がとりわけ、その存在を心強く思っていた同期の名前があった。
その人とは学生時代から関わりがあり、社会人となった今も同じ会社で働いていることに、数奇的なものを感じていた。業務上の接点は無いながらも、同じ仕事を支えている者同士、という実感があった。
(相手はそんなことも無かったかもしれないので、一方的過ぎたら迷惑かもしれないが)
学生時代から同じような道を辿ってきた人がいなくなる。転職する。ご栄転。
なんだか、いきなり自分より数歩先に行ってしまったような心地にも見舞われる。
今あることを着実に続けることより、新しいことを始めることのほうが、より進歩しているように思える。
「退職のご挨拶」を読むたびに感じていた、自分と社会との糸が断たれるような心地の正体とは、実はこういうものなのかもしれない。
でもそれも「思える」だけで、実際はどうなのかなんてもう、自分で決める段階に入ったのかもしれない。
今あることを「完膚なきまでに極める」ことで、進歩し続けている人もいる。ベテランと言われている上司の人たちを見ると、やはりそう感じる。
そして自分は、「今は」その道を選び続けているので、今この場所に留まっている。
近しい人から「退職のご挨拶」が届くたびに、なるべく返事を書くようにしている。
こちらこそお世話になりました、お元気でやってください、またいつかどこかで会えることを楽しみにしています…なんて、こちらまである程度フォーマット化された文章で以て挨拶を返している。
「“いつかどこかで”会えることを楽しみにしている」なんて言葉ほど、漠然とし過ぎた脆い希望を押し付けるモノもそうそう無いのかもしれない。
ただ、“いつかどこかで”会える機会がなくとも、自分はいまいる場所で同じくらい頑張ります、と答えているようにも思える。
なんかそんな感じの新年度の始まり。