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あの夏に返してくれないか

「ご馳走だぞ」

そう言って祖父は、目玉焼きが乗っているだけのご飯をテーブルに置いた。ご馳走。山盛りの白いご飯の上に、卵を焼いただけのそれを乗せた代物ではあるが。24時間お腹を空かせている第二次性徴期の少年にとっては、間違いなく光り輝くご馳走だった。料理という概念を飛び越え”ご馳走”と言い放ち、箸を持っておもむろに「いただきます」をする祖父の佇まいも込みで、今日に至るまで記憶に焼き付いている。

おふくろの味ならぬ、祖父の味。

ほか、湯煎したボンカレーを「さも私が作りました」と言った具合に丁重に運んでくる姿もまた、思い出深い。彼はカレーが嫌いだったのに、いつも僕のために作ってくれた。レトルトかどうかなんて関係なかった。

「俺は食わん」

「なんで?」

「好かん」

その言い切りっぷりが妙に清々しかったからなのか、本当に好きじゃないのが空気で伝わってきたからなのか、二の句が継げなかった。
カレーライスが嫌いな人なんて世の中にいるんだな、と子供心にも思った。

カレーが嫌いな祖父が甲斐甲斐しく食べさせてくれたお陰もあって、僕はいまだにカレーが大好きだ。

続柄が『祖父』にカテゴライズされているだけで、実際のところは父親代わり、母親代わりであり、歳の離れた兄のようであり、時に、歳の差を感じさせない無二の親友でもあった。

彼の存在なくして今の自分はいない。

「楽団の調子はどうだ」

と祖父(音楽活動のことを”楽団”とひとくくりにして呼ぶ。古めかしい)

「まぁまぁかな」

と僕。

「悪いよりは良い」

と祖父。さらっと言ってのけるが、その言葉の深みに、いたく、感心する。

カレーの話で思い出したけれど、チョコパイも自身は食べられないのに用意してくれていた。自分は嫌いなのに孫が好きだから用意するって、奉仕の心が過ぎる。僕の人格形成と、人生の至上命題である『人に尽くす』は、間違いなく彼によって培われたものだと思う。

一度エンゼルパイか何かと間違えて買ってきて、怒ったことがある。今思えば恩人に向かってひどい仕打ちをしたものだ。申し訳ないことをした(今もなお、お墓参りで手を合わせるたびに、この件について謝罪をする)。

祖父は悪くない。悪いのはエンゼルパイだ。



人里離れた山の奥深くにあった二階建ての家。僕と祖父のひとときの楽園は、震災と豪雨で壊れてしまった。その頃にはもう彼は居なかったけれど、きっとひどく悲しんだと思う。なにせ、思い出しかない。


自我の発達につれ悪知恵を働かせるようになる僕にはほとほと手を焼いたとは思うのだけれど、祖父とは一度も喧嘩をしたことがない。

何かをして、叱られた、怒られた経験が、ただの一度もない。

長らく根付いている他者への恐怖感、”大人には怒られるもの”という固定観念に差し込み続けている、一縷の光のような存在だった。

いつも難しい顔をして、難しそうな分厚い本を読んでいた。

背も高く、一見気難しそうで、表情から感情が読み取れない。声も低い。孤高の存在のような彼は、その実、慈愛と茶目っ気に溢れた聖人だった。
子供っぽいことでゲラゲラと声を上げて笑った。


僕がご飯を食べていると、目を細めて見つめてくる。

「うまいか?」

「うん」

「そうか」

あの時、僕は照れてたっけ。見ないでくれよ、なんて思ったかも知れない。見つめ返して「いつもありがとう」って、どうして一言言えなかったんだろう。

多くのことを受け入れ、赦された。一心に、愛してもらった。数えきれないほどの学びを得て、一生かけても辿り着けないほどの憧れが、今なお、ある。


過分な評価だけれど、僕はよく人から「やさしい」と言われる。

確かに我慢強い方だと思う。よほど親しい友人にさえ、心の内を打ち明けることはほとんどない。そのせいで心を病んでダメダメになってしまった時期もあったのだけれど・・・一番の強み、だとは思う。
怒らない。慌てない。焦らない。受け入れる。赦す。

常に思慮深くいること。人を愛すること。

それもこれも全部、祖父から受け継いだものだ。

何か悩んだり行き詰まった時には「彼ならどうするだろうか」と考える。選択を迫られ、決断に至った時には「これでよかったかな」と、自分の中の祖父に問う。

夏が訪れると、より強く、祖父を想う。

暑いのは大嫌いだけれど。あの大きな手に引かれて一緒に歩いた夏祭りの帰り道が、妙に懐かしい。ただ歩いてるだけで楽しかった。金魚も、当たりくじも、おもちゃの銃もプラモデルも、なんにも要らなかった。夕暮れと共に遠くで鳴き始めるひぐらしの声を聞いて、ずっと今日が続けばいいのにと、寂しく思った。

また、夏がきた。

折に触れては思い返して、手繰り寄せる。伝えられることは伝えられるうちに、たくさん届けなければ。

これを読んでくれたあなたに。
この先巡り会う、まだ見ぬどこかの誰かに。
僕を覚えていてくれるすべての人に。


はじまりの、我が友に。

ありがとう。


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