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私の小さな友達にごあいさつを

以前「具合が悪い時ほど刺激的な映画が見たくなる」といった内容のことを、ブログか何かに書いた気がする。『具合が悪い』とはこの場合、肉体的な健康と精神的な健康、そのどちらか、ないしは両方を損ねている状態を指す。
天秤の釣り合いが取れていない状態か、天秤そのものが機能していない状態。

かつて、重い病気で入院していた友人は「世界が滅ぶような映画ばかり観ている」と言っていた。必死に生きようとする人々を見ていると安心するのだそうだ。逃げ場のない災禍が強制的に降りかかるという”公平性”と、その状況においては社会的な階級も、健康不健康という個体としての強度の問題も、全てがイーブンになる。

傷口に塩を塗るように、落ち込んでいる時ほど精神的に追い詰められるような映画を観たくなるのは、自身の正常性を担保したいからだろうか。もしそうだとして「自分はまだ大丈夫だ」と思いたいのは、不健全だろうか。

ひどくアンテナの精度が高まってしまうと、なんてことのない一言や、不意に目に入ったニュースなんかに一喜一憂して、普段なら当たり前のようにできることが手につかなくなったりする。みんなにとっての”当たり前にできること”が自分にはひどくハードルが高くて、息苦しくなったり、緊張や不安に支配されることも、今なお。しばしば、ある。

「そんなことで」と人は言うけれど。

「こんなことで」と自嘲する余裕すら無い時も、ある。

『演者』という鎧と『Akht.』という仮面がない自分が、いかに不安定で、揺らいでいる存在なのかを、思い知らされているような。枷に繋ぎ止められている間は余計なことを考えなくていいからなのかもしれない。思考も行動も一本化されるから。明確な目的に向かって進むのみだ。

落ち込んでいる時は、昔のことをよく思い出す。育った町で起きたこと。目も当てられないような失敗の数々。言われてきた心ない言葉たち。深々と刺さり過ぎてそこにあるのが当たり前な傷のひとつひとつも、今となってはモチベーションの礎を担っているかもしれない。

自分と誰かをひとりぼっちにしたくないから、ドラムを叩くのだ。
不純だろうか。そんなのも時には構いやしないだろうと、誰に言うでもなく。
『今』で自分を満たしていないと、ぽっかりと空いた隙間から崩れていってしまいそうで。

「だから」「それでも」を、探し続けてしまう。

弱さや傷を見せないこと、弱音を吐かないことが美徳だとは、少しも思わない。何もかもが綺麗で整っていないといけないなんて思わない。何かに怯えてばかりの人生だけれど、これでよかったな、って。そう思える瞬間を拾い集めていきたい。

何が正しいかなんてちっともわからないけれど、自分の気持ちに正直で居さえすれば、少なくとも間違いには成り得ない。

”自分じゃなくちゃいけない理由”なんて、自分の中からは出てこないのだ。けれど「あなたじゃなければいけない理由」は、僕が関わる人たちに対して導き出せるから、影を落とすような生き方はしたくないなぁ、なんて。


乱文ライオンだ。がおー。

ヨルゴス・ランティモス監督の『哀れなるものたち』を観ようと思ったけれど、結局やめてしまった。また今度。



ひさしぶりにFF14にログインした。

パーティの中ではそれぞれの役割がある。フレンドとの間ではコミュニティの管理や運営もあるし、時には会議を開いて企画立案をしたり、固定のシフトを組んだりする。中身の僕が具合が悪くても、キャラクターはいつだって元気に走り回るし「w」のキーを連打していれば、落ち込んでいても笑ってくれる。虚しい茶番かも知れないけれど、そこから安心を得たり、救われることもある。
ほんのわずかな時間だけれど、空を飛んで景色を観に行った。楽しかった。

本当の名前も、顔も、性別も、年齢も知らないけれど、僕にとってかけがえのない友人たちが居る。

ドーナツとアイスを食べながら『ビバリウムで朝食を』と『8月31日のロングサマー』を読んだ。

ひとまずは、重畳。


読んでくれてありがとう。

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