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その道は一本 ~柔道が世界をつなぐ~ Vol.7 中村年秀さん

オーストリア、オーストラリアにおいて計15年以上柔道指導をされている中村年秀さん。海外での柔道指導に興味を持ち、半年間、指導方法を勉強した後、言葉もほとんど話せない中で『旅の指さし会話帳』を懐に海外に飛び出していきました。「子供が楽しむこと、礼儀や規律を身につけること」に重きを置いた指導を心掛け、新型コロナ感染症制限下においては、オリンピック金メダリストを講師にオーストラリアと日本の子供達をオンラインで結んだ練習会を実施。第7回の今回は、オーストラリアの中村年秀さんにお話を伺いました。

『旅の指さし会話帳』を懐にオーストリアへ柔道指導へ

――まず、柔道を始めたきっかけを教えてください。

幼稚園の頃の友だちが町道場(奈良柔道クラブ)の先生の息子さんで、その子の家に遊びに行くといつも道場で遊んでいたんですね。そこで柔道に興味を持って始めました。幼稚園の年長、5歳のときに始めて11~12歳ぐらいまではそこで練習していました。それから地元の都南中学で柔道を続け、中学3年のときに奈良県で優勝して近畿大会で準優勝。全国では2回戦負けでした。東海大仰星高校時代は、みんな強い人ばかりできつかったですけど、楽しかったですね。自分がもっと強くなれると思っていたので。同期の仲間もそんなに強い選手もいなかったので、みんなで一緒に頑張って強くなろうという思いを持ってやっていました。

幼少期、県大会で優勝

――大学は、国際武道大学でしたね?

大学の恩師の柏崎克彦先生と高校の恩師の小寺建仁先生(現在、同校校長)が子弟関係ということもあり、武大に行かせていただきました。大学に入り、部員数が多いことにまず驚きました。道場も広いし。柔道するには最高の環境でした。
大学卒業後に東京で一度就職したのですが、先輩から海外での柔道指導に関する話を聞いて、海外における柔道の指導に興味を持ちました。それで柏崎先生に相談したんです。そしたら柏崎先生から1年間、研究生として柔道指導法を勉強し直せと言われて、国際武道大学に研究生という形で戻りました。それで、1年間の予定だったんですが、いざ柏崎先生の元で勉強させていただいていたら、半年で先生から「お前もう行ってこい」と言われ、先生の紹介で、ヨーロッパのオーストリアに行くことになりました。

高校時代、大阪国体

――初めて海外に行く不安は?

言葉が不安でしたね。英語もできないし、オーストリアはドイツ語圏なんですけど、ドイツ語もゼロの状態でしたので。

――どう克服されたのですか?

『旅の指さし会話帳』という本があるんですけど、イラストも描いてあって凄くわかりやすいんですね。僕は常にその本をお腹のところにさして行動していて、話しかけられたら、すぐにその本を出してどれか指さしてくれと。その本をフル活用していました。

指導風景1

――オーストリアでは、どのような環境で指導を?

シュタヤマルク州の一番下のほうの、スロベニアとオーストリアの国境沿いにライプニッツという毎年ジュニアの国際大会を開催している町があるんですけど、そこの小さなクラブチームで、トレーナーコーチとして指導を始めました。場所は、学校の地下で、だいたい1試合場ぐらいの狭いところでした。生徒は30人~40人ぐらいで、子どもも大人も教えました。

自らオーストラリア柔道連盟へ履歴書を送るなど行動力とチャレンジ精神で己の道を切り開く

――収入は?

最初の頃はもうほぼないに等しい状態でしたね。お小遣い程度。でもその代わり、ホームステイさせてもらって、ご飯も食べさせてもらえるという契約でした。1年契約で行ったんですけど、オーストリアのボスから契約を延長したいと言われて1年延長して。再度契約を延長したいと言われたときに、給料を少し多くもらえるようになり、結局、オーストリアには7年いました。その間に、ライブニッツの町に大きなスポーツ施設ができて、生徒も凄く増えたんですが、教え子も柔道の指導ができるように育てていたので、7年経ったときにはもう僕がいなくてもライプニッツは大丈夫だなと思い、オーストラリアに行くことにしました。

指導風景4

――なぜオーストリアからオーストラリアへ?

オーストリアは雪国で、冬がメチャクチャ寒いんですよ。僕は寒いのが苦手なので、次はちょっと暖かいところに行こうかと(笑)。自分でオーストラリアの柔道連盟に連絡して直接交渉しました。オーストリアにいる7年の間に柔道コーチの資格も取っていましたし、自分自身、試合も出ていたので、指導の実績と試合の実績を書いて、オーストラリアの柔道連盟に送りました。それで、採用が決まり、2012年からオーストラリアに来ました。

――オーストラリアは英語だと思いますが、英語は話せたのですか? オーストリアではドイツ語でしたよね。

オーストリアはドイツ語ばかりでしたね。やはり小さい子どもに指導するので、当時のボスから英語は勉強せずにドイツ語だけ勉強してくれと言われて、ドイツ語だけをずっと勉強していたので、英語はほぼしゃべれない状態でした。それでまた、必殺の『旅の指さし会話帳』です(笑)。

国際大会コモンウェルスゲームズ真ん中の子が48kg銅メダル獲得

――素晴らしいチャレンジ精神ですね。オーストラリアに行って環境的にはどう変わりました?

オーストラリアでも最初はホームステイをさせていただいたので、行った当初は同じような感じでしたね。ただ、ヨーロッパで7年も指導の勉強をしていたので、オーストリアに行くときに比べると断然自信はありました。柔道の指導に関しては、ドイツ語と英語の違いだけで、伝えることは一緒ですから。

――オーストラリアではどういった方々に指導されているんですか?

いまは、オーストラリアのブリスベンにある大濠道場というクラブチームで、4歳ぐらいの小さい子どもから大人まで、週に4日、9クラスを指導しています。あとは、毎週ではありませんが土曜日にクイーンズランド州のジュニアヘッドコーチとして指導をしています。

国際大会教え子リオオリンピック出場1

――オーストラリアの柔道と日本の柔道はどんなところが違いますか?

日本は子どもの頃からしっかりと基礎を学び、「崩し」や「作り」や「掛け」により、きれいな技で相手を投げますよね。でも、オーストラリアはまだ力任せに投げるところが多いので、そこがまず違うと思います。あと、根本的な柔道人口が違いますね。オーストラリアは去年の時点で6355人しかいません。町道場や先生の数も日本と比べて少ないです。あとは、企業に柔道チームがあるところがないんです。

衝撃を受けた海外指導者の指導法
真似事から初めて自分なりの指導法を確立

――柔道の人気はどうですか?

人気はないですね(笑)。オーストラリアはラグビーとか水泳とかがメジャーで、それに比べると柔道はまだまだです。でも、徐々に柔道人口も増えてきていて、2年前に比べて500人以上は増えているんじゃないですかね。あとはコーチ陣の数も増えてきているので、そこはいいと思います。

教え子達とのオーストラリア選手権での写真.j

――中村さんが柔道を通して教えたいこと、伝えたいことは、どのようなことでしょう?

柔道においては、勝ち負けだけではなく、礼儀や規律、相手をリスペクトする精神などが凄く大事だと思っているので、そういう部分を考えながら指導しています。

道場、大濠道場、

――日本と海外、指導法で違うところはありますか?

海外は、選手を楽しませる練習方法をやられる指導者が多いですね。日本だと基本が大事で、毎回同じメニューを淡々とこなす。それもものすごく大事なことなんですけど、ヨーロッパの先生たちはいろんなトレーニングメニューを組み込んで練習されています。私も、ヨーロッパに行ったときに、先生方の指導方法を見て凄い衝撃を受けて、そこから考え方が変わり、はじめは真似事しかできませんでしたけど、徐々に自分なりの指導法に変えてきました。

――具体的に言うと、どのような練習ですか?

例えば、内股をメインに指導する場合、内股をいきなり指導するのではなく、内股に繋がるように、一本足のバランス感覚の練習とかその一本足の足の力を付けさせるウォーミングアップ、例えばケンケンで鬼ごっこをさせるとか、そういう指導法ですね。

指導風景4

――なるほど。選手とのコミュニケーションで気を付けていることはありますか?

あまり柔道の話ばかりをしないことですね。たわいもない日常生活の、例えば「今日は学校どうだった?」とか「何か美味しいもの食べた?」とか、友だちのような感じでコミュニケーションをとっています。選手にもよりますけど、そういう話をする場合もあれば、柔道が好きで、オリンピックを目指して本気でやっている選手には柔道の話を多めにします。

国際大会アメリカ

――いまの日本の柔道についてはどう思われますか?

もう「強い」しかないです。強過ぎますね、日本の柔道は。やはり日本の柔道はちゃんと組んで、きれいに投げて一本を取る柔道、あとはキレイな礼ができる柔道、そこに日本柔道の魅力があると思います。

教え子とともにいる写真1

――中村先生の1週間のスケジュールを教えていただきたいのですが、お仕事は?

いまはクィーンズランド州柔道連盟のジュニアのヘッドコーチと大濠道場のヘッドコーチ。で、柔道以外は、昼間は建築会社で、フルタイムで働いています。大濠道場のボスが建築会社の社長でビジネスも凄く成功されているんですね。そこの会社で働かせてもらっています。

逆境をチャンスに! コロナだからこそ実現したオンライン交流が子供だけでなく保護者からも大好評。

――これから海外へ行きたいと考えている若者に、何かアドバイスをお願いします。

どんどん海外へ行くべきですね。柔道は、海外で生きていく上で自分の特技となります。柔道を通して人を笑顔にできるし、人を幸せにできる。人を幸せにできる力は誰もが持っているわけではなくて、柔道をやられている方は特別だと思うんです。柔道衣を持って町道場へ行って、子どもたちと一緒に柔道をするだけでもメチャクチャいい笑顔が見られる。文化も違う異国の地に行くわけだから、苦労や壁にぶつかるのは当たり前。でも、目的や情熱を持って行動すれば、海外でも認めてくれる人は必ずいると思うんです。なので、苦労したあとには今よりもさらに楽しい人生が待っていると信じて行動してもらいたいですね。

教え子の子供たちとのプライベート写真1

――オーストラリアは新型コロナウイルスの影響はどうですか?

3月から6月までは政府がコンタクトスポーツ禁止令を出したので道場を閉館して自粛していましたが、その自粛期間中はオンラインでトレーニングしました。
うちの大濠道場の子供たちだけじゃなくて、日本の福岡、岡山、静岡、埼玉、神奈川にある道場の先生や生徒さんたちと一緒にオンライン練習会をしたり、そのあとに国際交流として、英語と日本語で話してみたり、そういうこともやってみました。リオ・オリンピックチャンピオンのティナ(・トルステニャック)というスロベニアの選手と、大学の先輩でもある小見川道場の小見川道浩先生、あとは村尾三四郎選手(東海大学)などに参加していただいて、子どもたちに夢や希望や元気を与えてもらいました。子どもたち全員の目が凄くキラキラしていて、僕を見る目とは全然違いました(笑)、集中して話を聞いていました。親御さんたちからも凄く良かったと反響をいただいたので、やって良かったと思います。

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――柔道をやっていて良かったこと、海外に行ったからこそ味わえたことはありますか?

一番良かったことは、どこに行っても柔道を通して友だちができることですね。例えば、僕はいまオーストラリアに住んでいて、ヨーロッパにはいないけど、ティナに(オンライン練習会のゲストを)お願いしたら快く受けてくれた。そういう関係性を作れることが凄く嬉しいし、良かったことですね。

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――中村さん自身の今後について、どのように考えていらっしゃいますか?

僕自身は、今後もやはりオーストラリアで、家族そして、こちらに来てできた家族、ボスのファミリーとか、教え子のファミリーとか、そういうみんなと一緒に楽しく柔道をやっていきたいですね。

【プロフィール】中村年秀さん

プロフィール写真

中村 年秀(NAKAMURA Toshihide)
生年月日:1979年6月28日生まれ
出身:奈良県
5歳から柔道を始める
東海大仰星高校→国際武道大学
講道館杯出場
世界グランドマスターズ66kg級優勝、オーストラリア選手権大会無差別級3位。
コーチキャリア:2005年からオーストリアクラブチームでコーチ。2012年からオーストラリアクィーンズランド州ヘッドコーチ。2013年〜2015年オーストラリアナショナルチームジュニアヘッドコーチ、2016年〜2019年オーストラリアクィーンズランド州ヘッドコーチ、2020年オーストラリアクィーンズランド州ジュニアヘッドコーチ
居住地:オーストラリア(ブリスベン)
大濠道場ヘッドコーチ、クィーンズランド州柔道連盟ジュニアヘッドコーチ、全柔連国際委員会在外委員。

【#全柔連TV】インタビュー動画


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