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その道は一本 ~柔道が世界をつなぐ~ Vol.9 カリウ・佐々木光さん

ソウルオリンピックにおいて公開種目として実施された女子柔道競技。7階級で日本唯一の金メダルを獲得したカリウ・佐々木光さん。自身が幼い頃に教わった「道場で一番強くなりたかったら、道場で一番やさしい人になりなさい」という言葉を胸に柔道人生を歩み続けています。東日本大震災後には、フランスと岩手県大船渡市(岩手県)の子どもたちが柔道を通じて交流する「海の道プロジェクト」を手掛けられました。第9回は、フランスで柔道指導をされている佐々木さんにお話を伺いました。

陸上ばかりしていた子ども時代に出会った柔道。
「道場で一番強くなりたかったら、道場で一番やさしい人になりなさい」に心惹かれる。

――まずは、佐々木先生が柔道を始めたきっかけから教えてください。

私が中学1年のときに、父が交通事故に遭いまして、そのときにかかった整骨院の先生に「柔道をやらないか」と言われたのがきっかけです。
柔道をやる前、父は私と兄を陸上のオリンピック選手にしようと思っていて、私たちは走ること以外は何もさせてもらえなかったんですね。毎日、朝と晩に走って。昔は「水泳は体を冷やして筋肉によくない」と、今とはまったく逆のことが言われていたので、学校の水泳の授業さえもやらせてもらえなかったんです。そこに整骨院の久保正太郎先生が「柔道をやらないか」と。父は、それまでは陸上以外はダメだと言っていたんですけど、陸上の練習を続けるのならやってもいいということになり、週に2回久保先生の教える友愛道場に通うようになりました。

――久保先生の指導はいかがでしたか?

すごく変わっていて、道場で柔道を教えるだけではなくて、百人一首を教えたり、みんなで歌を歌ったり、柔道以外のいろんなことをやらせてもらいました。ボランティアで街頭に立って、募金をしたりしたこともありました。

24、兄弟弟子

――その久保先生の教えで、いま指導するうえで役立っていることはありますか。

私がなぜ柔道をやりたいと思ったかというと、小さい頃から走っていて足腰が強かったこともあるんですけど、久保先生が言われた「道場で一番強くなりたかったら、道場で一番やさしい人になりなさい」という言葉なんですね。
そのときは考えられなかったんですけど、大きくなって、そういえば、先生がそう言っていたなと。結局、それを求めて私は柔道をやっていたんだと、大人になってから気が付きました。

――高校は市立沼津高校に行かれましたが、その頃陸上は?

中学まで部活は陸上部でしたが、高校進学のときに、市立沼津の柔道部の根木谷信一先生に「うちに来ないか」と誘われて。そのときに、父に話したら、「続けることが大事だから、朝、走ることだけは続けろ」と。それで、部活は陸上でなく柔道にしました。

――やはり毎日走っていたことで、強い足腰が養われていたんでしょうね。

それは基本だと思います。私は走っていなかったら、ただの普通の子で、柔道もそんなに強くはなれなかったと思います。でも、ただ走っていただけじゃなくて、雨が降っても病気をしても休まずに365日走っていました。自分でもよく続けたなと思います。父に言われて走っていたわけですけど、父も「子どもに言うからには俺もやる」と言って、走っていましたから、やらざるを得なかったです。

強さよりもまずは人間形成、柔道を通して人として成長したい

――高校2年のときに初めて出た全国大会で2位。そこで大きな目標を持ったりしなかったですか?

なかったです。私は、「とにかく柔道が強くなりたい」ではなくて、心の部分も強くなる、立派な人になるという思いの方が強かったです。だから、赤信号は渡らないとか、授業中は寝ないとか、先生の話はよく聞くとか。そういった柔道以外、畳以外のところでも、とにかく自分を高めたいと思っていました。根木谷先生がよく言われていたのが、「中身のある人間になれ」ということ。2つの透明なコップがあって、1つには水が入っていて、1つには水が入っていない。遠くから見たらわからないけども、近くに寄るとわかる。人間として、水の入っているコップのようになりなさいということを教わったんです。柔道を通して、柔道だけじゃなく、人間として成長しなくてはならない。高校のときからいつも人間形成、人間形成と思っていました。

――ソウルオリンピックでの金メダルは、佐々木さんにとってどんな位置づけですか?

一言でいうと『通過点』。そこが終点ではなくて通過点。ただ、その試合に勝ったことは自信になったし、それがあったからこそ、いまこうしてフランスで、指導者としてできていると思います。

――海外での指導についてお聞きしたいと思いますが、どうして海外に行こうと?

自分の進路について考える時期があって、試合や遠征で何回か行かせていただいていたフランスで柔道の先生になりたいというのが、ちらっと自分のなかにあったんですね。なぜかというと、フランスで見た、柔道をする子どもたちがすごく楽しそうだったからなんです。
それで、やってみようということで、まずガソリンスタンドでアルバイトをしてお金を貯めて、兄からもお金を借りて、フランスに4か月くらい滞在して、いろんな道場を回ったんです。
フランスで指導者になりたいと思ったんですが、実際には、それだけではたいした収入にならないし、生活できないんですね。それで、無理だと思って日本に帰って、大学の先生になりました。
大学で「やれ!やれ!」と言って、学生たちにやらせているのが嫌だと感じながらも日本で先生をし、年に1回はフランスに行くみたいな生活だったんですが、そんなときに、フランス人の柔道の先生が「一緒にならないか」と言ってくれたんです。それで、一緒になれば柔道も一緒に教えられるなということで、フランスに行くことにしました。

2019親子柔道

フランスでは柔道が教育の一環として広く認知されている。

――フランスは日本以上に柔道が盛んだと言われていますが、柔道人口は?

今年の登録者は503,000人。普通は年度最後まで増え続けるんですけど、今年は新型コロナの影響で、3月から増えていないようです。
日本の登録者15万人より多いですが、フランスは社会体育なので、自分でお金を払って好きなことをやるんですね。サッカーやって、柔道やって、ラグビーやってと、いろんなスポーツをやっている人がたくさんいるわけです。だから、スポーツ人口というか、登録人口が多いのは当たり前なんです。それに対して、日本は学校体育がメインだから、他のスポーツができない。その違いだと思います。

2014最初のメイン道場(プロムラン)にて4

――日本とフランスの柔道の違いを感じることはありますか?

凄くあります(笑)。日本人は、コツコツやることがいいことじゃないですか、。でも、フランスでは、そういう感覚がないので、たとえば毎日、体操して、打ち込みして、投げ込みして、乱取りして終わると言ったら、フランス人は次の日から来ません。同じことを毎日繰り返せない。新しいことを求めるんです。たぶん、目的が違うと思うんです。日本はすべてにおいて結果を求める。やるからには一番になろう、いい成績をとろうと。でも、フランスは結果をそんなに求めていなくて、あくまでスポーツは趣味や余暇なんです。

2014最初のメイン道場(プロムラン)にて2

――フランスでは柔道が教育的な捉え方をされていて、子どもにやらせたいスポーツとして人気があると聞きますが?

それはその通りです。子どもがやりたいからじゃなくて、親が連れてくる。で、楽しいから子どもが続ける。たとえば、学校で落ち着きがなくて、授業中に走り回っている子を病院に連れて行くと、専門家が「柔道をやりなさい」と。それで連れてくるんです。柔道はルールのなかでやるので、「待て」とか「始め」とか、言われたら必ず従わなければいけない。それと相手に礼をするとか、投げたあとに必ず引き手を引く。相手を投げ飛ばすけれども、相手も守らなければならないと。そういうことも教えるわけですよ。そうやっていろいろなことを覚えていく。引っ込み思案で人前で何かをすることができない子も、専門家が「道場に連れていきなさい」と言うわけです。柔道は他人と組まなければできないですから、やっているうちにだんだん人と触れ合うのが楽しくなる。そういうことにも使われていますね。

2年前にご自身の道場をオープン。88歳で初段を取得した練習生も。

――フランスの社会において、柔道が担うものは大きい?

ものすごく大きいですよ。私は日本人なので、そういう面ではみんなに見られていると思っています。
以前、粟津正蔵先生と講習会でお会いしたときに、終わったあとに、バーに誘っていただいたんですね。うちの旦那や、先生の弟子の方たちも一緒に行ったんですけど、そのときに、一曲歌わせてくれと言われて、島崎藤村の「椰子の実」という曲を歌われたんですね。60数年前にフランスに来て、先生がどんな思いでいたのか、その歌を聞いた瞬間にすべてわかって。先生がなぜその歌を歌ったかというと、「お前も頑張れ」というメッセージだったのかなと。それを聞いたときに、背筋がピンと伸びて、先生が柔道家として築いてきたものを崩したらダメだし、先生と同じようにやっていかなくてはいけないと感じました。

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――いま、道場では何人くらいの子どもを、どんなスケジュールで教えているんですか?

2年前に、250人くらいの道場をやめて自分の道場を立ち上げて、いまは50人。場所を移して、新しく立ち上げて2年目で50人というのは、悪くはないかなと思っています。
いまは、火、水、金、土が道場での指導。そして水曜日は、ここから1時間半くらいのところにあるクラブで2時間、そして、ここから30分くらい行った町で、ハンディキャップを持った人たちの柔道と体操をやっています。それが毎週の仕事で、あとは月に1回、ここから1時間くらい行ったブレストという町で子どもと大人のクラスを教えています。
教えているのは、下は4歳からで、上はいくつでもいいんですが、昨日88歳になられた方もいます。彼は去年、テストを受けて黒帯をとりました。立ち技の乱取りはしないですけど、寝技の乱取りもしますし打ち込みもします。本当に凄いですよ。

2020進級した子どもと

東日本大震災後に始めたフランスと大船渡市(岩手県)の交流活動「海の道プロジェクト」

――東日本大震災のあとに行った『海の道プロジェクト』について教えてください。

2011年の年末に、高校の恩師の根木谷先生から、東日本大震災の被害に遭った大船渡の子どもたちを元気づけるために講習会をしたいから来てくれないかという連絡があったんです。私も日本人として、凄く心配していたので、震災後すぐに道場で募金をしたり、折り紙を折ってもらったり、柔道の講習会を開いてお金を集め、それを日本に送るという活動をしていたんですね。それを根木谷先生が知っていて、今度はお前が日本に来てくれということで、始まったんです。

2、空港到着

2012年2月に初めて大船渡に行って、柔道やエアロビクス柔道をやりました。そのときに表敬訪問した大船渡市長から、大船渡を立て直していくには子どもたちの力が必要だから、ぜひ子どもたちに外の世界を見せてほしいと言われたので、フランスに帰ってすぐに、周りの人たちと相談してアソシエーションを立ち上げ、フランスと大船渡との交流をしようとなったんです。

6、講習風景

2015年は私たちが夏にやっている柔道の国際合宿の日程にあわせて大船渡から10人の子どもたちを招待しました。そこにはヨーロッパ中から150人、オリンピックのメダリストも来ましたから、子どもたちにとっては刺激になったと思います。2017年には、逆にフランスの教え子10人で日本に行きました。私たちにとっても、子どもたちにとってもいい経験になったと思います。

8、フランス代表選手と

11、ベルギーチャンピオンと

――海外に行きたいと考えている若者たちへのメッセージを。

私自身、日本を出て初めてわかったことがいっぱいあって、それは、日本の中にいたのではわからなかったと思うんです。自分を振り返って、日本柔道、日本全体、自分が何者なのか、日本人としての誇りとか、そういうものを考えることができた。その中で、いま自分に何ができるのか、自分は何をすべきなのかというのを、自分自身に問いかけることもできた。海外に長くいなくてもいいので、日本を出て、自分自身を振り返る機会を作ってほしい。ぜひ、積極的に出てほしいと思います。

14、最終日

――佐々木さん自身は、これから、フランスで何をし、何を残したいとか、ありますか?

具体的なプランとしては、道場を建てることですが、私自身は、「自分は一つの点であれ」と思っているんです。嘉納治五郎先生の創られた柔道は、これからも変わらずに続いていくと思うんです。私はそのなかのたった一人の柔道家であって、前から受け継いだものを、後ろに引き継ぐ大事な点だと思うんです。ただ伝えるのではなく、伝える前に自分自身がきちんとした点でなくてはならない。人に言うだけのことができるようになることが先で、その後に、つなげていく。何も残そうとは思っていませんし、何も残らなくていい。点になって引き継ぐ。それだけです。

【プロフィール】カリウ・佐々木光さん

7、佐々木光

カリウ・佐々木光(Hikari Cariou-Sasaki)
生年月日:1967年10月4日生まれ
出身:静岡県
13歳から柔道を始める
市立沼津高校→筑波大学
ソウルオリンピック女子柔道(公開種目)優勝
コーチキャリア:フランス道場指導
居住地:フランス(ブルターニュ)
全柔連国際委員会在外委員。

【#全柔連TV】インタビュー動画(前編)

【#全柔連TV】インタビュー動画(後編)


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