見出し画像

その道は一本 ~柔道が世界をつなぐ~ Vol.4 島岡強さん

アフリカ大陸の東側、タンザニアという国に浮かぶ小さな島「ザンジバル」。畳も柔道衣もなくビーチで始めた柔道指導、秘密警察からの調査、失業率が高く経済的に厳しい選手達、多くの困難を乗り越え、東アフリカ屈指の柔道強豪国の一つにまで育て上げた島岡強さん。今年は柔道の仲間が中心となり、新たな柔道場を自分たちの手で建設するなど更なる普及発展に向けて精力的に活動をされています。
第6回の今回は、ザンジバルで漁業と運送業そして貿易を営む島岡さんに、タンザニア・ザンジバルにおける柔道のお話を伺います。

※タンザニアは、タンガニーカという本土と、ザンジバルという島の連合国家です。
タンガニーカとザンジバルそれぞれに政府があり、柔道連盟も同様に2つに分かれています。
全柔連とNPO法人JUDOsから送られたリサイクル柔道衣は、タンガニーカとザンジバルで活用されています。

画像1

国を代表するスポーツとしての柔道

――島岡先生が柔道を始めたのは何歳のときですか。

小学1年生のときにテレビで『柔道一直線』というドラマを観て、これはおもしろいな、私も強くなりたいな、と思って横浜にあった町道場に通い始めました。中学校までその町道場に通い、高校と大学の途中まで柔道部でした。19歳のとき大学を中退して、フリーのジャーナリストとして海外を回り始めたのですが、このとき柔道衣をかついで行ったんですね。それで訪れた先々で柔道場を見つけては練習させてもらって。みなさん同じ柔道家ということで情報をくれたり、家に招いてくれたり、親切にしてもらいました。いま、柔道を教えているのは、そのときの恩返しだと思っています。

画像3

――指導を始めたきっかけは。

1987年にザンジバルに来たとき、柔道をやっていたよ、と言ったら教えてくれと言われました。柔道衣も畳もない中で人の少ないビーチで練習を始めました。でも、革命軍を組織しているのではないかと誤解されてしまい、6年間に渡って、秘密警察の監視下におかれてしまいました。1992年に格闘技が解禁になってから、ようやく柔道ができるようになったのですが、その6年の間にどれだけ私のことを調べても何も出なかった。それが信頼につながって、ザンジバル政府からここで練習してくれ、と土地を提供されました。まずそこで10年間、青空道場で練習し、次に提供された場所に、2004年ザンジバル武道館を建て、2014年ペンバ島の方に、ペンバ武道館を建てました。

画像4

画像5

――現在のザンジバルの柔道人口はどのくらいですか。

1500人くらいです。練習が厳しいので10人入ってきても1、2人しか残らないのですが、入門者は絶えずいますし、道場が増えるに従って弟子も少しずつ増えています。入門は、6歳から受け付けていますが、年齢層は15歳から35歳くらいまでが主体です。イスラム教の影響で男子が圧倒的に多いですが、女子も5、6人います。ほとんどが結婚してお母さんになったりしていますが続けています。

画像17

――ザンジバルで人気のスポーツは?

やはりサッカーです。でも、ザンジバルで、国技として認められているのがサッカーと柔道です。

――すごいです!なぜ柔道が国を代表するスポーツになったのですか。そこまで発展させることができた理由は。

ザンジバルで、唯一国際大会でメダルを獲れる競技だからですね。サッカーでは国際大会では勝てないわけです。
ここまで発展させることができたのは、1987年にこちらに来てから、一生懸命、まじめにやってきたからでしょうね。ただし、こちらで柔道を教えるということは、弟子たちの生活の面倒をすべてみるということです。月謝などもとっていません。そうでなければ彼らは練習に出てこられません。そういうことをしっかりやってきたからだと思います。
アフリカ最大級のザンジバル武道館と、ペンバ武道館という2つの武道館を作ったことも大きいでしょうね。武道館は、結婚式や集会場、演劇の会場などいろんな催し物会場としても使われるんです。日本の高校の体育館くらいの大きさがありますから。それを作ったことも認められた理由の一つでしょうね。

画像6

生活の面倒もすべて見て初めて「先生」

――生活の面倒とは具体的にどういったことですか。
こちらは失業率が70%くらいで仕事を持っていない人がほとんどなので、みんなその日暮らしです。病気になった、結婚する、自然災害で家が壊れた、とかいろんなことが起きますが、何かにつけお金がかかります。そういう面倒もみるということです。そういうことをしてはじめて「先生」ですから。柔道を教えているだけ、というわけにはいかないんです。

画像7

――ザンジバルの人々にとって柔道はどんな魅力があるとお考えですか。

柔道で強くなれば外国に行くことができるところじゃないでしょうか。ここには島から一歩も出たことがない人がたくさんいます。東アフリカ選手権や世界選手権に出場したり、2~3年に一度、順天堂大学で2~4人ほど3か月ほど預かってもらっているんですが、これもそうです。つまり、人生の可能性が広がっていくわけですよね。
アフリカに「サファリに出るということは勉強することだ」ということわざがあります。サファリ(safari)とはスワヒリ語で旅という意味ですが、旅に出ることはとても大事なことだと考えられているんですね。だからザンジバルの柔道家は尊敬されるんです。そういう立場にいるので個人個人が柔道家としてのプライドを持ってしっかり生きていくことが大切ですし、そういう弟子を多く育てていくことが私の仕事ですね。

画像8

――東アフリカ選手権がとても重要な大会ということですが、その理由は。

ひとことで言って参加しやすいんですね。飛行機に乗って行かなくても、船とバスだけで参加できるので。それにメダルを獲る可能性が高い。それが大きいと思います。世界選手権とかでメダルが獲れるわけではありませんから。あと、国際柔道連盟の主催大会にはタンザニアとして出場しますが、東アフリカ大会にはザンジバルとして出場できることもあります。ザンジバル人としての誇りをかけて戦うことができるわけです。
この大会は、ザンジバル、タンザニア本土、ケニア、ブルンジ、ルワンダ、エチオピア、ウガンダなど7カ国が参加して行われていて、昨年は第12回大会でしたが、ザンジバルは第5回大会以来の総合優勝を果たすことができました。ここ数年は厳しい戦いが続いていたのですが、今度こそ何が何でも優勝しようということで、かつての弟子たちが若い弟子に稽古をつけて1か月半近く合宿をして準備をして、全員で勝ち取った優勝でした。だからみんなすごく喜んでいました。

画像9

柔道を通じて等身大の自分を知り、養った精神力を人生に生かす

――昨年は東京で開催された世界選手権にも出場しましたね。

タンザニアにとって3回目の世界選手権でしたが、ザンジバルから3名、タンザニアから2名の計5名が出場しました。私はナショナルコーチとしてコーチングボックスに入りましたけれども、試合で勝つうんぬんよりあの場を踏めたことが一番の大きなことですね。貧しい国の人たちが日本まで行けて、世界の舞台に立てたわけですから。81kg級に出場した東アフリカチャンピオンALI KHAMIS HUSSEINはリオデジャネイロ・オリンピックのチャンピオン(ハサン・ハルムルザエフ/ロシア)に開始18秒で、内股で一本負けしましたが、これが世界を知るということですね。世界にはもっともっと上がいるというね。等身大の自分を知ることができたことが何より良かったことだと思っていますね。

画像11

画像10

――8月の初めに新しい道場が完成したばかりと伺いました。

ザンジバル本島の北にあるベンバ島のケンケジャというところに作りました。私のほうで建設の資材を提供して2月に着工し、弟子たちが自分たちでブロックを積み上げ、屋根を葺いて完成させました。
今回、私が指導を始めた初期の一番弟子が現場監督をしました。これまで建てた2つの武道館も、弟子たちを総動員して完成させましたから、弟子たちがさらに弟子たちに技術を伝えて道場ができていく、そういう図式ですね。このケンゲジャの道場では、ジンバブエにJICA海外協力隊として赴任経験のある古内彰先生に指導してもらうことにしています。

画像18

画像19

――現在の練習回数や頻度はどのくらいですか。

月~金曜日まで毎日、夕方5時~7時までやっています。練習内容は日本の強い高校くらいですね。弟子の多くは仕事を終えてから練習に来ます。私も初めの頃はまだ全然わかってなかったので、練習の開始時間に遅れてきた選手に対して怒鳴ったりしたこともあったんだけど、彼らの手を見ると、セメントだらけなんですね。それを見たときになんて言ったらいいのかな、仕事が終わってすぐに来たんだな、一概に怒ったりしてはいけないな、と思ったことが何度もありましたね。彼らの生活事情を理解してあげないと、いい指導はできないですよね。

画像12

――指導にあたって柱としている考え方はありますか。

嘉納治五郎師範が掲げられた「精力善用」「自他共栄」「力必達」です。厳しい練習をやり、厳しい試合に出て勝っていく。人生とまったく同じです。過酷なアフリカの生活の中ではいろんな問題が一年中起きます。とくに死は身近にあるわけです。家族や友人が病気やいろんなことで亡くなっていくんですね。だから、それにいちいちショックを受けて、落ち込んでいたら生きていけない。そのために柔道を通じて、問題が起きてもそこから敢然と立ち上がっていく力、強い精神力を身につけてほしいと思っています。

人生いいことも悪いことも決して長くは続かない

――1987年にザンジバルに渡られて以来、漁業、運送業などをして雇用を生む一方、近年は貿易業の一環として、「ティンガティンガ・アート」(※)の普及にも力を入れらっしゃいますね。

私の場合、すべてそうなんですけど、人から頼まれたことを形にし、仕事としてきた訳です。柔道は仕事ではありませんが、どうしても柔道を教えてほしいといわれて始めましたし、漁業は、職にあぶれた漁師たちが漁船を作ってくれれば働くことができる、ティンガティンガであれば、日本でプロモートして絵で生計を立てられるようにしてほしいと。私は絵には興味はなかったんだけど、そこまで言うのならということで日本に紹介し始めました。今では一年中、日本各地で展示会が行われています。

(※)6色のペンキを使ってタンザニアの生活を描くポップアート。1960年末、建築作業員だったエドワード・サイディ・ティンガティンガという人が、建築現場にあったベニヤ合板に動物や風景を描いたのが始まり。

画像13

画像14

――ザンジバルの人々に頼りにされ、多岐にわたる事業・活動をされてこられたわけですが、これまでたくさんの困難があったと思います。どのようにして乗り越えてこられたのでしょうか。

アフリカの人々が経済的にも精神的にも独立して生活していくための手助けをすることそれが私の根本姿勢です。困難なんてあって当たり前、乗り越えるのは当然です。33年前にここに来てゼロから土地を耕し、種をまき、芽が出て、ここ数年でようやく実を結び始めた。今はそういうところなんじゃないかと思っています。

画像16

画像15

――現在、世界中で新型コロナウイルス(Covid-19)が蔓延し、厳しい状況に置かれています。島岡先生にこの状況はどのように映っていますか。

アフリカに長く住んでいる立場から正直に言いますと、新型コロナウイルスは先進国を中心に感染が拡大したからこれだけの大騒ぎになっているんだと思います。アフリカには、マラリア、エイズ、コレラ、エボラ出血熱、そのほかわけのわからない風土病がいっぱいあって、命を落とす人がたくさんいいます。コロナ以上に深刻な問題があるんです。だから、新型コロナウイルスに決して負けることなく、本来の生活を取り戻していけるようにしていきたいですよね。
それと私は柔道の弟子や会社の社員にも常に言っているのですが、いいことも悪いことも決して長くは続かないということです。だから、いいときは調子食らわず、悪いときはそれが一生続くと思って悲観的にならないこと。これは絶対に忘れてはいけないことだと思っています。

【プロフィール】島岡強さん

画像2

島岡 強(SHIMAOKA Tsuyoshi)
生年月日:1963年8月17日生まれ
出身:神奈川県
小学1年のとき柔道を始める。
愛媛大中退。
コーチキャリア:1992年より正式にザンジバルで指導。
居住国:タンザニア(ザンジバル)
ザンジバル柔道連盟名誉会長。東アフリカ柔道連盟理事。ザンジバル武道協会総帥。タンザニアナショナルコーチ。全柔連国際委員会在外委員。(株)バラカ会長。

【#全柔連TV】インタビュー動画




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?