ヒカリの考察と感想

丸山隆平さんのソロ曲、「ヒカリ」を聞いてからヒカリのことしか考えられなくなってしまっている。

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8BEAT

関ジャニ∞のアルバム、「8BEAT」の完全生産限定版を購入し、5人分のソロ曲とそのMVを見た。


丸山隆平さんのソロ曲「ヒカリ」も、見た。

それ以来、毎日朝昼晩ヒカリを見て、聞いて、エゴサして、ほんとにヒカリのことばかり考えてしまっている。

何をしようにも、脳みそのどこかで歌詞の意味や、あの湖に沈みそうな丸ちゃんの姿の意味を考えてしまい、寝る前にまた3回ほど見返し、部屋の小物ひとつひとつにすら何か意味があるのではないか……と考え込んでしまっている。


頭がパンクする前に、以下、簡単にではあるが私なりの「ヒカリ」の解釈を書いていく。


みじかい夢に溺れていたわ 赤くて白い瞼(まぶた)の裏側
  いばらの蔦(つた)に 絡まった私たちは 帰り道を 見失っていた

MVでは、山の中にある湖畔に体を半分沈めた丸山さんが映し出されていた。(そんなことすな) この丸山さんを湖の丸山さんと呼ぼう。

メイキングでは、監督が「つたが水であり、水に絡まって、水(湖)から出たいが岸には出られないという葛藤がある」と表現していた。湖から出られないということは湖や水が何か「業」や「運命」のようなものの暗喩なのかもしれない。

このあとの歌詞はMVだとカットされていて、そのまま2番のAメロにいくのだが、

「みじかい夢に溺れていたわ」「もっと気持ち良くしてよ」という歌詞の女性的な表現が、この曲の性別や定義をより曖昧に魅せることに一役かっている気がした。

個人的に丸山さんはこういう女性的な表現がほんとにお似合いで、宇多田ヒカルのAutomaticカバーも世界一似合っていたと思っているので、ここの歌唱部分の表現力にも痺れた。




「帰り道を見失っていた」のところでは、森の中を歩く黒い礼服の列が映る。先頭には赤い旗を持つ人間がおり、その後ろに明らかに墓標のようなものを持った人間が続いている。これは葬列だと見て間違いないだろう。

知らなかったが、調べてみるとこれは野辺送りという、遺骸を火葬場もしくは埋葬地へと運ぶ儀式らしい。



変わった貝殻を拾って 耳に当てた細い指が青く透けた
橙の浜に打ち上げられた克(こく)鯨(くじら)は
乾ききって黒くなっていた


ここで、「貝殻」や「浜に打ち上げられたコククジラ」というような、水辺の表現へとうつる。なるほど、湖に身体を浸して横たわる丸山さんは、打ち上げられたコククジラに重ねることが出来る。


コククジラのことを調べてみたのだが、クジラの一種で、「コククジラは、頭部や背中に寄生動物やほかの生物が付着していることが多く、海中の岩のように見える。」らしい。

これも特に本編とは関係ないのかもしれないが、岩のようなクジラが打ち上げられて乾き黒くなっている、という表現はやはり不吉かつ厭なものを感じさせる。

コククジラのように打ち上げられた湖の丸山さんの手首には赤い縄が結ばれており、先が引きちぎられたかのようになっている。そして湖に浸されていた腕を持ち上げて、空に手を伸ばす。そしてそっと目を開けた湖の丸山さんと重なるように、ベッドに横たわっていた丸山さん(青シャツを着ていたので青シャツの丸山さんと呼ぶことにする)が、夢から目覚めたかのように目を開け、ひとりぼっちの空間で部屋を見渡す。

そしてこのMVでは「桃の断面を蟻が這う」カットも登場している。

桃というのは、中国では「不老長寿の果実」とされており、日本人にも桃から桃太郎が生まれるなど、なにかと「生」のイメージと関わりが強い果物である。その果物の断面を蟻が這っているというカットは、同じく不吉な予感をさせる。



甘い夢見たくて苦い薬探すから 美味しかった現在(いま)をまた壊してしまう
  鉛筆を削って書けずに夜が明ける 酔って気づかないふり
  酔って気づかないふりさ


ここではまた別の丸山さん(森の丸山さんと呼ぶことにする)が登場する。

「鉛筆を削って書けずに夜が明ける」という歌詞を歌うのは青シャツの丸山さんだ。

夕暮れの部屋で膝を抱えながら歌う姿は、少年のようでもありつつ、疲れ果てた文筆家も連想させる。

鉛筆を削り、タバコをふかすが、何も思い浮かばずに朝になってしまう。追い込まれて酒に逃げる。酔って見て見ぬふりをする。そんなイメージだ。



「酔って気づかないふり」で、青シャツの丸山さんは立ち上がり、そして場面が変わり湖の丸山さんも同じく湖から出ようと濡れたズボンを引きずり立ち上がる。





別れは稲妻だ 涙は光だ
   悲しみの声を置き去りにして 呼吸を真空に奪っていくよ
   心臓がとまる その瞬間を唄うのさ


別れは稲妻だ、涙は光だ、と歌いながら、湖の丸山さんは左の手首を赤い縄ごとギュッと握りしめる。

そして心臓がとまる、の時には胸を抑えて一瞬ほんとうに息が止まったかのような仕草をするのだ。


そして、走馬灯のように、かわるがわるカットが挟まれる。

「桃と蟻」、「葬列」、「草むらを滑る白色の布(花嫁のベールのようにも見える)」、「寝返りを打って、起き上がる青シャツの丸山さん」、「部屋に佇む白布の人」、「森を歩く葬列」、「虹の反射したシーツを握りしめる手」、「森の差し込む木漏れ日」、「頭を抱える湖の丸山さん」。


「別れは稲妻」「涙は光」「悲しみの声を置き去りにして」「心臓が止まるその瞬間を唄う」、そしてここまでの描写から見ても、

このMVは大切な人との死別を表しているのだと思った。


途中に映った、草むらを滑っていく白色の布は、花嫁の姿を連想させつつ、しかし死装束の白い着物にも思える。

この白布の人のカットを見た時、わたしは真っ先にア・ゴースト・ストーリーのことを思い出した。

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恐らくホラー好きの丸山さんがこの作品のことを知らないわけもないと思っているため、あえての演出なのではないかと考えている。


赤い縄で繋がれた相手がこの世から去り、残された丸山さんは、いつまでも失望したまま生きる気力を失っているのではないだろうか。湖から出られない描写や手首に残った縄、うなされて何度も目覚めるかのような青シャツの丸山さんの描写も説明がつく。


また、呼吸を真空に奪っていく、とは「死んだ側の呼吸が止まる」という意味にもとれるが、わたしは生き残った側の、声にならない嗚咽や過呼吸になるような姿を想像した。湖の丸山さんが、まさにそんな表情をしていたように思えたからである。





涙は光だ
   悲しみの声を置き去りにして 呼吸を真空に奪っていくよ
  心臓がとまる そのときを
  意識が切れる そのときを
   存在が消える その瞬間を唄うのさ


丸山さんの横顔がそっと目を開け、そして日の出が差し込む湖に立つ。湖の丸山さんの顔は朝日に照らされて、咆哮するように「涙は光だ」と歌う。

場面は変わり、膝を抱えていた青シャツの丸山さんが「心臓が止まるその時を」と、虚空に向かって歌う。森の丸山さんが、無垢な目で真っ直ぐにこちらを見据える。青シャツの丸山さんが立ち上がったあとに、意味ありげに映し出されていた壁には、夕暮れの明かりで影が出来ており、それがクジラのようなシルエットをしている。コククジラだ。

ピアノの伴奏と共に歌い終わる時に、寝ている青シャツの丸山さんの肩に、そっと白布の手が触れる。昇りきった朝日を見つめる湖の丸山さんは、足首まで湖に浸かっており、湖から出られていない。最後に白布が水に揺れているカットが映り、このMVは終わる。


最悪だ……


最悪だ、とわたしは思った。美しさに圧倒され、その世界観に圧倒され、しかし結末まで見てしまった時に最悪だと思った、

そして現在まで、中毒のように見返して、今では何か居心地の良さや、澄み渡る清々しさすら感じるようになった。

わたしが思うに、森の丸山さんや湖の丸山さんは、丸山さんの精神世界(もしくは悪夢の中)の暗喩であり、青シャツの丸山さんこそが、現実に生きている丸山さんなのだと思う。

しかし、最後、白布の手がその青シャツの丸山さんの肩に触れた時点で、精神世界のものが現実のものに触ってしまえており、単純に考えてこれは「現実世界の人間が死んだ」という意味だと思った。


ここでもうひとつ整理しておきたいのは、丸山さんはダークファンタジーやグロテスクな世界観のものを、好む人間である、そしてそこに「人間くささ」や「美しさがあると思う」と感じるタイプの人間だということだ。

死ぬ事が怖いから生きることが美しくなり、不気味だからこそ知りたくなる。そんな価値観を持っている人だと思う。


丸山さんは「(歌詞は)英訳が難しいと思う。文学的、日本語の広がりがある。」と語っていた。丸山さんがこの歌、MVで伝えたかったことは、単なる悲しみや悲劇の恋の結末では無いのだろう。わたしは、1年がかりで練り、コンテから関わったこの丸山さんの世界観の表象を見て、やっと丸山さんの美学や哲学を垣間見た気がしたのだ。


葬列の黒い礼服は、一転すれば婚礼の列にも見えるかもしれず、沼のような湖と死の淵のような浜辺は、見る目を変えれば海の生物の宝庫であろう。暗くて寒い湖畔にも朝日が昇る。鬱蒼としたものを爽やかな森や湖の自然と合わせて表現したこと、悲しみがあれば喜びがあること、生と死が流転していくこと。そういうものを、ここから感じ取れる気がした。

最後に叫ぶように歌う「涙は光だ」と、最初に歌った「涙は光だ」は同じ歌詞でありながらも、まったくの別物であるところにもそれが現れている。1番の時にはひたすら苦悩し打ちひしがれていたこの「涙は光だ」というは、最後には、克服であり、赦しであり、もがき苦しんで見つけた希望のように聞こえるのである。丸山さんの表現力の高さがなせる技だろう。


みなさまは、これを聞いた時に何を連想したのだろうか。

わたしは賛美歌、もしくは、鎮魂歌を連想した。

このMVでは歌われていない1番の「緞帳の向こうで激しく燃え上がる」は、ちあきなおみの「喝采」(いつものように幕が開く)を彷彿とさせるし、

最後の高く伸びる「涙は光だ」は、藤井風の「帰ろう」( 待ってるからさもう帰ろう/去り際の時に何が持ってけるの)と同じものを感じるし、

そして赤い旗が揺れる葬列のカットを見て、10代の頃に教科書で読んだ「真夏の葬列」を思い出した。



丸山さんのパーソンのインタビューを読んでも思っていたが、丸山さんが思う自身のパブリックイメージを守るためにこういう自分の好きなものや自我を出した曲は控えていたみたいで(元気な曲を選んでバラードを避けてたらしい、可愛い)いつまでもファンのことを思って自分を後回しにしてしまう丸ちゃんのそんなところが愛らしくもあり、しかし今回こんなとんでもないものを見せてくれた丸ちゃんに頭が下がる思いだ。

そもそも、思い返してみれば丸ちゃんはメンバーすら私生活をあまり知らないという謎に包まれたミステリアスかつサブカル女殺しの男であり、個展では般若の面と水晶を飾り冷たい熱帯魚を放映、そして部屋のフリースペースには宗教ゴッチャ煮のアートスペースが存在(そしてミニ半跏思惟像もある)(なんでやねん)している男なので、こういうテーマを提案していたとしてもまったく不思議ではない。そしてわたしはそういう丸山さんの趣味が嫌いではないのである。

そして、今回のソロ曲は思い思いのとらえ方があって誰もが正解だと思っているので、ヒカリを見た人はみんなこぞってどういう感想をもったのか是非シェアして欲しい。そしてそれをツマミに私は酒を飲みたい気持ちである。


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