死んだ人

2012-01-31 05:41
%死んだ人。[編]
お久しぶりです。
そして今更ながら明けましておめでとうございます。
まともに更新するのは久しぶりで…
ここ数ヶ月、色んな事がありました。
年末に振り返ってみようと思っていたものの、なぜだか勇気が出なくて。
今更ですが、振り返ってみようと思います。

8月、キャバクラに入店。
ほとんどフルで通勤にも1時間(セットで2時間)かかりお店からの往復の毎日。
その頃のご主人とは・・・上手くいっていないのか、なんというか。
少しおかしくなってしまっていた。
最初はひどい躁状態で周りが振り回される感じで。

それからは感情の起伏、暴言、奇行が目立っていき、それがあり元々不安定だった私はくたくたになり帰ってきてもその言動に悩まされ…、

お店でもお客様に
「病んでる?」「幸薄そう」「目が死んでる」。

最初は、無理にでも笑っていられる仕事に、逆に支えられていたけれど。
段々と顔に滲んでくるようになっていたそうで。

その頃は、完全にヒモ…だった、今思えば。
よくないと思いつつ、
「これで優しくしてもらえるなら」
「少しでも一緒に居てくれるなら」。
悲しかった、お金で時間を買っているようで。
いつも変わり映えがないからいけないんだ、と2人で泊まりで遊びに出掛けた。私持ちで。

それでもやはり妙な発言は止まらなく、だけれど
思い出のあのホテルに入れば、あの人はあのときのように私を愛してくれるはずだと、信じていた。
というよりは、賭けていた。

結果と言えば、普段以上に興奮していたみたいだけど、その間もやはり「彼」という感じがしなくて。
私がご奉仕をしただけで終わって。
愛し合って、あの人の腕枕で眠って、
悪夢に泣く私をなだめてくれて、仲良く部屋を出る、そんな1年前。

せめてそうでなくても、「普通」に愛されたかったのです。
次の日は、道に迷って不機嫌になってしまい
帰ると言うのでお金を渡して別れた。
ぽつんと1人、出勤時間までぼぅ、と。

あの人は私に
「お前はチェス駒だ」「猫と遊んでるようで楽しかった」「俺の手のひらで踊らされてるだけ」と言った。
痛かった、すごく。

この頃のあの人の妄想はもう止められるものではなく、
仕事から帰り、自分は過去の偉人だと思い込むあの人に
支離滅裂な言葉を並べるあの人に、
「うんそうだね」。
肯定も、否定も、どれもが怖くて。
そんな毎日が続いた、ある夜

仕事中に脅迫電話がかかって来、帰ってみるとパソコンが潰され線も切られ、土足で家に上がり包丁を持っていたと聞きました(母から)。

ああ、もうこれは駄目だな、と。
その日の夕方、私と母と、共通の男友達2人と、あの人のご両親に入院させて欲しいと頭を下げに行った。

その道中、
「あの子が何かをしないように、
あの子の為なら、腕1本くらい折っても構わないから」
「そうでもして、止めてあげて」と私の母は男友達に言った。

ご両親にお話しをしたけれどどちらも耳を疑うような発言ばかり。
私の家族を貶す発言も多くて。
心底、あの人に同情をした。
そしてあの人とご家族と別れ次の日、
荷物を取りに来てもらった。
荷物を詰めながら、私が今まであげた手紙や
プレゼントを詰めながら、涙が止まらなかった。
「ああ、この手紙さえもあの母親には笑いのネタにされるんだろうな」
と思うと、なんとも言えない気持ちになったり。

その次の日から私は、イベントがある為に休みがなかった。
死にそうな目で、死にたいという思考で、毎日毎日。

「本当に入院に入院させてもらっているのだろうか」
「もしかしたら死んでしまてないだろうか」
「正気に戻って、あの人の事だから自己嫌悪で辛い思いをしていないだろうか」
「あそこにはあの人を止めてくれる人が居るだろうか」

そればかり、毎日。

その頃、(あの人にpcを壊された日)に
同伴でオープンラストでいてくれたお客様と営業後、たまにご飯に行く事があった。

26歳、社長、若いけれどすごく落ち着いている。けれど、私はそれに癒されてた。
その社長の前では、最初から明るく、きゃぴきゃぴといった言葉が似合いそうな私だった。お店で何十時間も話していたから、話題といえばそんなになかった気もする。だけど、癒された。

幾日かして、仕事へは行けなくなり、辞めた。それからは。寂しくて辛しくて。
紛らわせる為に風俗に行ったりして。
お給料が入っていっていたからお金には困っていなかったけれど。
ひたすら遊んだ。
毎日のように友達と遊んだ。

他の男性とも関係を持ちました。
だけどそうすると、すごく辛くなって。
もう1人。
その人は私の首を絞めて笑った。
歪んでた、顔も性癖も。
だけれど、違う、何かが違う。

やっと忘れられるかと思った途端に、
ひどく辛くなる。
だから結局、
仕事に専念した。
お金が絡めば他の人と寝る事になにも感じなくなった。

あの人の件では、
私の親、親戚、向こうのご両親に
もう縁を切ってくれと言われていた。

そんな時。公衆電話から着信。
「俺だけど」うん。
「やっぱり病気だった」そっか、
「結婚しよう」・・・うん。

無理なんだよ、言えなかった。
お見舞いすらも、行けないのに。

その後もそんな感じの着信が数回。

1ヶ月が経つ頃には、少しは良くなった。色々と、。
馬鹿みたいに毎日毎日稼いだ。
誰か、私の本当の名前を読んでください。大して欲しくもない服を買った。
死にたいと思いながら財布を取り出す。
両手には沢山の買い物袋。
顔は死んだようで、目線も遠く。
その間も、例の社長とメールや電話でやり取りはしていた。
そしてたまに、ご飯に行ったり。
ここでもやっぱり明るい私。
けれどそれが逆に、助けられていた。
表情筋がなくなってしまったかのような私だったから、楽しそうにしている事が、実際に楽しかった。

あれから2ヶ月。
傷心旅行に出掛けようと思った。
知らないない土地へ、期限のない旅に出たくて。思いついたのが、東京だった。
ネットの友達も居たし、社長の会社と家があるので一緒に連れて行ってくれるとの事で、甘えさせてもらう事に。

まず東京に着いて。キング・オブ・タトゥー。様々な愛好家さん達刺激を受けたし、サスペンションもコンテストも、ワクワクした。あの人と離れて、初めてこんな所へ来て。これも1つの幸せだ、と思った。

そして、人生初のタトゥー施術。
左の胸に英文と散っていく薔薇。
これから何があっても、散ってしまっても、それでも私は私として、生きる。
そう、私自身に誓いたくて。

その夜、銀座まで社長にお迎えに来てもらいご飯へ。
最初はお酒も入り子供のようにはしゃぐ私だったけれど、「泣いてもいい?」と笑って言った。
「このケーキ食べてもいい?」というような感じで。
社長はただ一言、「いいよ」。

その一言でもう、色んな感情が込みあがって。顔を隠して声も出さずに泣く私の前で、社長は、窓から外の景色を眺めていた。

それから社長の家でお世話になっていて、だけれど当の家主は大阪に行ったりで、結構自由にしてました。

一週間ほど経った頃、「出掛けるぞ」と
社長に起こされて準備、向かった先は。井の頭公園。

わぁ、すごい、なにあれ、ほら見て!
そんな言葉が自然と出てくる。社長は
「前に、遊園地とか行ったことなくて、って。」「だから普通のデートがしたかったのかなって」と言った。

何故か、鯉を見ていたら涙が出た。
周りにはたくさんの恋人達。
雰囲気のいい音楽。綺麗な電飾。
恋人でもない私達は、将来の夢の話をしていた。
そのあと幽霊居酒屋的な所へ行って、
びっくりして、騒いで、帰った。

幸せだったけど、でも何かが違って。
手を繋ぐのも一線を越えるのも、許せなくて。

こんなに深く関われた事が嬉しくて壊したくないのも、まだ私自身踏ん切りが付かない事でもあって。この頃もまだ、無意識に「死にたい」と口にする事もあって。

結局、2週間ほどお世話になりました。
帰る前日の晩は、私とあの人の事。
そして、あの人のこれまでの事をお話した。
ああ、そんな事があったなんてね。
辛かったでしょう、倒れてしまいそうだったでしょう、。どんな言葉をかけたかも思い出せないけれど。

ただ、縋るように「本当に好きなんだよ」。
最後の最後に身体を許した、私を触りながら「ごめんな、」と何度も言いながら泣いていた社長に。どうしても悲しくなって。
結局その夜は何にもしなかったのだけれど。

次の日、一緒に新幹線に乗せてもらい大阪に帰ってきた。

それから数日は、
社長の事をよく考えるようになった。
仕事に行けば、一方的な罪悪感に苛まされたり。好みに近づきたくなったり。

そして一週間後、
某夜景スポットに連れて行かれて告白。
夜景なんて。サプライズなんて。初めてで。
だけれど、私でいいの?こんなにも面倒な感情を持っている私で、?

それでもやっぱり、どうしようもなく好きになってしまっていたようで、お願いします。と伝えた。

それからは、大阪にも会社があるようで、大阪にも部屋を借り、私も入り浸り半同棲生活。

付き合いたては、京都に連れて行ってくれました。カラオケも、ビリヤードも、色々。
周りの恋人達と同じ事をしているんだと、こんなにも幸せなものなのだと、幸せでした。

そして昨年の11月下旬。
急に勉強がしたい、看護護の道へ行きたい、と猛烈に感じ予備校に通い始めました。
その予備校では、もうひたすら過去問をする段階に入っていたようで追いつけなく大変でした。それでも友人、社長の協力に感謝です。

中学、高校と学校に行っていない、勉強していない、というのもあり大変でした。
しかも後半は鬱っぽくなりなかなか手をつけられなく・・・

結果といえば、まあ当然、落ちました。
けれど良い経験になりました。
将来の目標も出来ました。
やっと親の思うレールに乗る事ができた。私の長年の夢を叶えるチャンスがきた。


とは言っても、今まで私の性癖でもり安定剤だった、
加虐行為や、思考、嗜好も
このまま持ち続けるには難しくて。
自傷行為や病む事さえ。

私がなくなってしまうのではと怖くなったり、自傷行為が出来なくなった今、定期的に不安定になったり。

大変な事も多いです。
だけれど、それ以上に幸せです。

「あの人」を「ご主人」と呼ぶことは
もうないでしょう。
今でも愛していますよ。多分、
だけれどそれは前のようなものじゃあ、ない。

本当にあの頃は、辛かった。
だ「あの人」を「ご主人」と呼ぶことは
もうないでしょう。
今でも愛していますよ。多分、
だけれどそれは前のようなものじゃあ、ない。多分、

本当にあの頃は、辛かった。
だから、私は。
私の中で「あの人」を殺しました。
あれだけ「貴方に殺されたい」と願っていた私が、その主人を殺しました。

無責任に「生きて」なんて言えないので
どうか生きているうちは幸せでいてください

そんな感じの、数ヶ月でした。

私とあの人を応援してくださっていた方々、こんな結末になってしまい申し訳ありません。

もう需要のないような私ではありますが、これからもよろしくやって頂ければ嬉しいです