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よわよわ行政、ざこざこ公務員

 道徳的に「弱者」の方が「強者」である現代。


1st. 異次元の強者


 身体機能の補強器具を利用していたり、なんとかマークをつけていたり、「見た目上の弱者マーキングされた弱者」を見捨てる「見た目上の強者マーキングされていない不届き者」への誹謗中傷は免れない。召使どもめ頭が高い。人生を這うように生きろ──言われている側からはそう見えたりもする。

 その外側で、認識の境界線を隔てた先ゲーテッド・コミュニティの強者は多様である。

 あまりの頭のわるさに愉悦を感じるとか、この構造は健全ではないとか、バカが死ぬのは自然の摂理であるとか、結果的に誰得ではないかとか、そっちはそっちで利己的にふるまったり、利他的にふるまったり、利他的に考えて利己的にふるまったり、利己的に考えて利他的にふるまったり。

 見えていなかっただけで昔からそうなのだが、情報化社会において見ようと思えば見えてくる。弱者もいろいろ、強者もいろいろ。なかなかどうして「白は白! 黒は黒!」とはいかない。白は白だし黒は黒だけど、なにか粘着性の腐敗した液がついてたりもする。死臭はどこから?


2nd. やめてくださいしんでしまいます


 かつて公金チューチューパラダイスとして非難GoGo、誹謗Chu☆SHOW!! の雨あられにさらされたのが公共事業であるとされている。誰が使うんだこれ?(案の定誰も使っていない)という無駄の極み──の背後で、ひっそりと現代も使われるインフラが敷設されていたり。中々どうして凡俗にとり、白は白で黒は黒とはわからないものである。

 ともあれ「未来にとって無駄じゃない」持続可能性というものは説明困難で、それが事実であっても「いま無駄」は同時に事実になれる。だから「無駄で……無駄で……すいませんしたァ!」と勢いよくドゲザの構えをとり、以後、這うように生きてきたのが公務員各位である(※地域により実態は異なることがあります)。

 あの官僚ですら、表で偉そうにすることはままならない。

 すっかりよわよわ行政のざこざこ公務員になってしまった。でもそれでよかったのかもしれない。誰だって叩かれるのは痛い。叩かれても痛くない人だけができる仕事は、叩かれても痛くない人に任されて行った。そして人材不足になった。


3rd. ハイ、ヨロコンデー!


 そしてイザカヤの民のように、行政の民もまた「顧客の注文をただしく復唱する民」となった。叩かれるのは痛いから。言われたことを言われた通りにだけしますと。給料分しかはたらきたくない。報酬に見合ってない仕事はしたくない。誰だってそう。

 だから「おじいちゃんおばあちゃんを見捨てるなんてひどい!」とみんなが言うならきっとそうなんだろう、ということになる。「じゃあ、元気なこどもたちが助けに行こう!」ということに。それはいったい誰が決めたのだろう? みんなが醸しだす空気である。安易に代表者ひとりのせいにするな。

 ところがどっこいアリバイ作りだの道徳的優位性がことさら大切な人達だの愚かだの、まあ無責任な人間は好き放題に物申すものである。「公共事業は無駄だッッ!」という勢いである。そこまで言うならお前がやれアリバイ作らずに道徳的優位性をかなぐり捨てて賢くやってみせろおっと口が滑ってしまった。誰だって間違える。やれたら口でなく手を動かしているはずなので、言っても無駄なことをつい言ってしまうものだ。

 国や地域の「代表」なのだから、その鏡に映るのは我々である。

 自分が無能なのだから、それを罵倒するギャグは自虐である。


4th. がんばれ弱者、まけるな弱者


 こんなに弱い我々が、いったい何ができるのだろう? 誰だって間違える。無駄なことをついつい言ってしまう。無駄だからやめろと。わかったうえでそれを言うこともできない弱者だっている。

 頭、手足、臓器、精神に不自由を抱えていたり、人間関係に不自由を抱えていたり、どこかしら不自由を抱えているのが現代人である。しかし、古代人もその配合が異なるだけで、そんな不自由の中で自由を尊んだ。できるひとはできたし、できないひとはできなかった。

 できたからといって強者であるとは限らない。

 病床で過去をさんざん後悔したうえで、しかしこの人生に一片の悔いなしと、強がってふて寝しただけの強者もいる。それでも強くあれたらいい。それこそ「強くなるための弱者の論理」として採用されたい。

 なぜ「『わかりやすい敵がいると石を投げるひと』というわかりやすい敵がいると石を投げるひと」が出てくるのか。あたまがよわいから。なぜそれを察知してもなにもできないのか。こころがよわいから。なぜそこまでわかってもなにもできないのか。ともだちがいないから。

 我が身を振り返り、己が弱さを理解わかり、できることをする。心ある弱者各位には、今後ともそうして心ある強者を支えてもらいたい。こちらもそうする。心ない強者は強いので、その強さをうまく利用するように。心ない弱者は弱いので、その弱さをうまく利用するように。使えるものは使おう。使えないものは使えるひとに任せよう。

 自分の弱者たる人生を豊かにすることで忙しくさせれば、そんな無駄なことを言う暇もない。当世は豊かになり過ぎた。ささやかな抵抗として先人の無駄に対する感謝の祈りを捧げ、今後とも豊かさを無駄に享受していきたい。

 無駄のありがたみを知恵ミームとして継承するのだ


Epilogue. 僕たちは異次元の喜びを同次元の友達に共有シェアできない


 喜びを忘れる人間など不敬だ。

 母なる計算機マザー・コンピュータたる地球をなんと心得るか。おい人類、自然にそこに在る喜びを計算しろ。計算をサボるな。この人間計算機風情が。風よ、水よ、大地よ! 自然を喜べ! 計算機自然デジタルネイチャー! 喜びを共有しよう! 感動できる! ありがとう!









 要するに,「臨時情報」は両刃の剣である。これを有効活用するためには,その光の部分を大きく引き出し,陰の部分を抑制すべく,関係者の事
前協議や合意形成など,社会の側の周到な準備が不可欠である。

(中略)

 これとは対照的に,「〈災間〉の思考」とは,筆者なりの解釈も交えて位置づければ,「ウィズコロナ」になぞらえて,「ウィズ災害」と表現できる考え方である。過去の災害 X は「もう」終わったわけではない。未来の災害 Y も「まだ」到来していないわけではない。

(中略)

 そうではなくて,災害 X が過去の方向から,災害 Y が未来の方向から,それぞれ滲出して,今の中に共存していることを前提に,災害(X や Y)と粘り強く並走しながら社会を作っていこう。これが,「〈災間〉の思考」の意味である。

(中略)

 〈災間〉について,もう一つの重要な論点を追記しておきたい。それは,「〈災間〉の思考」という重要な把握は,それを時間次元から空間次元へ
と転写させた対応物(カウンターパート)を持っている,という事実である。

 結論を先どりすれば,「〈災間〉の思考」,つまり,私たちは,常時,災害とともにある(ウィズ)という認識は,同じことを空間次元に写像すると,災害と人間の「近さ」(クロース)という理解をもたらすことになる。

(中略)

 人間がその手で巨大化させた災害対応システム(たとえば,津波防潮堤といったハードウェアや,津波ハザードマップといったソフトウェア)が,「油断」とか「依存」とか「安心情報」とかいった形で,被害を大きくしていることがしばしば観察される事実も,どこまでが自然現象でどこまでが人間現象なのか,その分割がそれほど自明でないことを示唆している。

(中略)

 もとの起りに「人間の細工」がある! 寺田氏は,自然と人間の間にクリアな境界線など引けないと喝破していたのだ。

(中略)

 しかも,「東日本」も「南トラ」も,残念ながら,最後の「東日本」,最後の「南トラ」ではありえない。それらは,これまで何度もめぐってきたし,この先何度もやってくる。これらの海溝型地震がもつ約100年のリターンピリオドは長いようで短い。

 この今を直近から挟む 2 つのそれ―「東日本 in2011」と「南トラ in 20xx」―だけを凝視して,過去から未来に教訓を受け渡すという平凡な思考の枠組み(〈災前・後〉の思考)はいったん棚上げする必要がある。

 代わって,この今が,〈災間〉であり「ウィズ災害」であると見なすこと,つまり,「〈災間〉の思考」へと根本思想を転換することこそが,真に「レジリエント社会」を構想することにつながるのではないだろうか。

ゆっくりと、まちがえながら、できることをする
見えない未来を、見えるよう現在にメモする
正義の中の悪、悪の中の正義をメモする
そう思わせてくれた、アカデミック意見まとめからメモする

われわれが深淵を覗くとき、深淵もまたわれわれを覗いているのだ……