慶応4年9月15日

9月15日(新暦10月30日)
熊倉方面から転戦してきた萱野隊は、一ノ堰にて西軍と大激突しました。この戦いもやはりジリ貧となり敗れていくことになるのですが城下町での戦闘が開始されて以来、萱野権兵衛は転戦に次ぐ転戦で北から南まで縦横無尽に暴れまわったのです。

佐川官兵衛と萱野権兵衛、
この二人の活躍もまた会津の籠城を助けたのでした。


この日、萱野が受け取った降伏勧告が松平容保の元へ届けられました。


降伏して開城か、城を枕に討ち死にか

養子であるにもかかわらず容保公は藩士から非常に慕われておりました。それはひとえに藩祖の遺訓を守るべく「会津藩とは」と常に考え、実行してきたその実直さでした。ですから、降伏勧告を受け取った彼の苦悩はわれわれには到底察することの出来ないものでしょう。

すでに徳川幕府なく、朝廷から逆賊とされ、頼みの援軍もない。それでも自分を守るために命を捧げる家臣や藩子弟そしてその家族。町民らの家々は焼かれ、城下町には死体の山。

薩長土肥の非道に屈すれば、会津の名折れ
生きて恥を晒すか、死して大義に殉じるか


容保公は、降伏を決断しました。

極限の状態で、彼は「もう存分に戦った」という境地に至ったのでした。それは、人の弱さであり、優しさでもあるでしょう。彼を責めるものは城内には誰もいませんでした。「殿がそう言うのならば・・・」

ついに会津は降伏に向かうこととなりました。


そしてこの日、奥羽の雄藩である仙台藩が降伏しました。

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