会津戦史 番外編 松平容保と西郷頼母
※この記事は、あくまでも秋元個人の考察になります。
松平容保と西郷頼母
幕末の会津藩においてこの二人の対立は、尊王か佐幕かはたまた開国か攘夷かなどという実は単なる政治闘争とは違い、思想哲学的に非常に高度な対立なのです。
現代人が単なる現代人の感覚でこの両者を推し量ってみても、なんの真実も見えてきません。多くの本を読みましたが誰も理解していないので、最重要項目として解説を行いたいと思います。
かたや養子として会津藩藩主となった松平容保、かたや藩祖保科正之と血が繋がる会津藩家老西郷頼母。この二人は幕末の動乱期に京都守護職を受けるべきか辞するべきか、西軍と対決すべきか恭順すべきかという藩の存亡をかけ対立しました。
松平容保は、藩祖の遺訓を忠実に守り会津武士道を貫くことを第一義と考えました。天皇を奉り幕府を支え、大恩ある幕府のためならば滅藩をも覚悟する、それが会津藩の役目である、という藩祖より続く会津藩の伝統を忠実に守ろうとしたのです。
対して西郷頼母は、会津藩の存続こそが第一義と考えました。会津藩の存続のためなら藩主も藩士も犠牲になって構わない、どんなことがあっても会津藩を残す、そう考えたのです。そのためならば自分たちの代が卑怯者と言われても臆病者と言われてもそれは甘んじて受けよう、そう覚悟したのです。
これは現代にも通じるとても重要なテーマではないでしょうか。
白虎隊のドラマでは、頼母の思想は「戦乱を避けるため、人々が争わないため」それは「命を大事にする」という薄っぺらいヒューマニズムで描かれていました。実は、これを支持する人はとても多いそうです。
しかし、そうかといって彼は「保身に走った」わけではありません。
彼は、どんな汚名を着ようとも、後世に会津藩を残せば「いつかきっとお家再興はなる」と考えていたのです。そのために自分は臆病者、卑怯者と呼ばれても構わない、という気概があったと見るのが正しい認識です。
対して容保の考えは、命を賭して「会津藩の伝統」を守る。それによって会津藩そのものがなくなっても構わない、後世に残すべきは「伝統」である、そういう覚悟だったのです。
彼は、生きてさえいれば、藩が残ってさえいれば、といって先送りして自分が保身に走ることを嫌いました。自らがまず会津武士道を貫いてみせる、その覚悟なくして何が藩主か、という上に立つ人間としてとても立派な思想だったのです。だからこそ、藩士から慕われたのです。
結局この二人の対立というのは、抽象的な「会津の伝統」か実質的な「会津藩」か、そのどちらを守るべきか、という非常に難しく非常に高度な思想の対立だったわけです。
ただし、どちらも命を賭す覚悟であったこと、そして藩の存続には恥を覚悟すること、そんな強い覚悟に基づいた対立であった、と捉えねばなりません。
日本という国は、ただそこに列島があれば、ただそこに政府があればよいでしょうか?ただそこに日本人なる人種が生息していればそれは日本でしょうか?それは違います。日本の価値は日本の伝統にこそあるわけです。
それを守らねばならぬ、それを自ら実践してみせよ、と松平容保は現代にメッセージを送っているのです。
西郷頼母は、今それが出来ぬなら臆病者の汚名を受けよ、と言っているのです。恥を持って次代に託せ、とメッセージを送っているのです。
会津戦争真っ只中と同じ秋の空、彼らはわたしたちを見ています。
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