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会津戦史 慶応4年8月24日~8月25日

8月24日(新暦10月9日)
照姫護衛のため坂下に向かった中野コウら20余名の娘子軍(後の俗称、当時は名前なし)は、そこで照姫はいない、つまり誤報であったことを知らされました。やむなく滞在していた萱野権兵衛隊に合流を求めたのですが、萱野に断られました。萱野は気骨ある士だったため、死を覚悟した戦いに婦女子を伴うことをよしとしなかったようです。途方にくれた娘子軍でしたが、そこにいた旧幕軍衝鋒隊に何とか合流させてもらい結局は萱野隊とともに一路若松城下へと向かっていきました。


一方、城下では板垣退助率いる西軍が前日の突入作戦の失敗から鶴ヶ城包囲へと作戦を変更しました。包囲といっても現時点の兵力では完全包囲とはならないため、友軍の到着を待つ、という方針に切り替えたようです。

引き続き行われた西軍による分捕り合戦はエスカレートしていき、所有権を巡って薩摩兵が肥前兵の分捕った蔵に爆弾を投げ爆破するなどの事件が起きています。会津木綿はほとんど持ち出されてしまったようです。そして彼らは庭の土に水をまき、水の吸収の早い箇所を掘って、隠してある財を見つけたりしていたそうです。戦争中、町人は比較的自由に歩けたそうですが、家に帰り占拠している西軍から自分の家財道具をお金を払って買い戻す、という状態だったそうです。

同時に、滝沢峠は逆戻りしていく多数の西軍兵が鶴ヶ城天守閣にて確認されています。彼らは、白河まで出張してきた骨董商人に盗品を売るため会津~白河間を往復していたようです。

たしかに、戦争とはそういうものだ、と言われればそれまでの話ですがここは日本、そして戦国時代ではないのです。当時ならまだ武士道などという言葉自体が一般に浸透してませんでしたし、粗暴な武将をしつけるために茶会を開いたりしていた頃ならよもや一般兵に何がしかの倫理や道徳を求めるのは無理があるでしょうが、武士道が形式化された江戸時代を経て近代に向かうというこの時代にこの行為は、そういうものだ、では済まされないのではないでしょうか。


8月25日(新暦10月10日)
払暁
東山方面から1000余名の東軍兵が決死の入城作戦を展開しました。陽動をうまく行い城南側の不明口から入城に成功しています。城内には歓喜の声が上がりました。

同様に、城の西方坂下から高久を通り入城しようと、萱野権兵衛隊や衝鋒隊そして娘子軍が進軍してきました。


午前9時、
衝鋒隊と娘子軍が城の北西に位置する泪橋(正式名称柳橋)にさしかかったところ、大垣藩兵と遭遇しました!中野コウの娘竹子(22歳)と妹優子(16歳)は美貌であったため、生け捕りにすべく目の色を変えて襲い掛かったそうです。が、竹子は薙刀の達人で誰も近づくことが出来ません。娘子軍は獅子奮迅の働きを見せましたが、

一発の銃弾が眉間を貫き、竹子は戦死しました

母コウは娘竹子の首を切り落とし(うまく落とせず他のものに手伝ってもらい)、その首は農兵が坂下の法界寺に持ち去って供養されたそうです。
竹子の持っていた薙刀には

武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも

と書かれた短冊が結ばれていました。


萱野権兵衛はこのときの出来事を、彼の生涯最期の時まできっと忘れることが出来なかったでしょう。


この日、会津盆地一帯にとんでもない爆裂音が響き渡りました。これは小田山にあった会津藩の火薬庫が爆発した音でした。小田山は鶴ヶ城の東南1500メートルの位置にある小高い山で、鶴ヶ城を砲撃する陣地として占拠されてしまったのです。

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