見出し画像

会津戦史 慶応4年8月31日~9月6日

8月31日、日光口の西軍はついに大内宿に到着、一泊して翌9月1日出発しました。そして9月4日、ついに会津盆地に侵入し本郷に到着しました。3つのルートに分かれていた西軍でしたが、白河口に続き日光口が到着したわけです。

9月5日(新暦10月20日)
本郷に到着した西軍はついに大川渡河に成功、会津城下町に迫りました。彼らが住吉に集結しているところを、

遊撃隊となっていた佐川隊が急襲!

予想外の襲撃に慌てた西軍兵は武器や食料を置いて敗走しました。佐川隊はここで得た武器や食料をお城に届けたそうですが、やはり佐川は城には戻りませんでした。佐川は会津戦争終結までお城に戻ることはありませんでした。武士としての責任感か、はたまた城内にいる山川、梶原ら若きリーダーへの反発か・・・

一方、この日もう一つの遊撃隊となっている萱野権兵衛隊は北方熊倉方面へ向けて転戦していきました。


9月6日(新暦10月21日)
越後口只見川。

両軍が対岸に陣取りしばらくこう着していたわけですが、ここに突如として鶴ヶ城を包囲していた西軍の一部が押し寄せ、なんと背後から会津兵に襲いかかりました。どのような伝達があったのか今日わかっておりませんが、会津軍は挟撃される形となり敗走を余儀なくされました。

ついに、越後口の西軍は只見川突破に成功したのです!

しかし、白河口、日光口から比べるとかなり遅れています。ここから会津盆地(坂下)への到着まで、まだ4日もかかるのです。

山県有朋はあせっていました。木戸孝允から、会津戦争では「長州藩が鶴ヶ城を落とせ」と厳命されていたからです。

長岡での激戦が痛恨の一事となって、彼の脳裏をよぎるのでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?