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会津戦史 慶応4年9月11日

9月11日(新暦10月26日)
北方へ転戦していった萱野隊は熊倉へ到着し、片門村から分かれて北方から侵入してきた越後口西軍と激突しました。

北方からの攻略は、8月28日に片門攻略のときに別れた軍で、手前の阿賀川を渡河し只見川をよけて北方から会津盆地を目指していました。9月2~10日まで続いた大規模な戦闘で西軍は大鳥圭介隊や長岡藩兵らに勝利し、11日に熊倉へ到着したわけです。


勢いに乗っていた西軍でしたが、油断もあってか萱野隊決死の攻撃に死傷者が続出し退却を余儀なくされました。

しかし、既に降伏している米沢から西軍への援軍が南下してきたため、萱野隊はやむなく撤兵し鶴ヶ城方面へと向かっていくのでした。このとき、米沢藩から会津藩への降伏勧告が渡されたようです。


大鳥圭介はこの後仙台で榎本武揚と合流し、函館へと向かいました。


【大鳥圭介】

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