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会津戦史 後日譚 その後の会津武士道

9月22日に会津が降伏すると、すぐに戦後処理が始まり会津藩士ら東軍兵はひとまず塩川と猪苗代に収容され、そこから藩士は東京へと移送されていくのですが、

この間、会津城下に累々と横たわる東軍兵の遺体を埋葬することは禁じられました。ある農民が飯盛山で果てた白虎隊士を哀れみ埋葬すると、なんと西軍に呼び出され「墓を暴いて遺体を晒せ」と命令されたそうです。

この無慈悲にして無道な見せしめは、間もなく訪れた冬によって雪の中に埋もれていきました。しかし春が来て雪が解けると、遺体が現れひどい悪臭を放ちました。それでも遺体埋葬の許可はなかなか出ず、蛆が湧きカラスや野犬に食い荒されました。ようやく埋葬の許可が下りたのは伝染病の危惧が生じたからでした。

二千を超える腐敗した遺体はまず寺に移すのにも苦労したそうです。頭を持てば頭が取れ、手足を持てば手足が取れるという状態で、悲惨の極致でした。

明治2年6月
収容されていた会津藩士らは東京へと護送されていきました。

9月
お家再興が赦され、斗南と猪苗代が候補地とされるも会津のすぐ隣の猪苗代は耐えられぬとの意見あり、そして斗南に開拓の余地ありとの情報により旧会津藩士及びその家族ら1万2千余名は遥か遠く斗南(青森県下北半島)へと向かっていきました。

お家再興という大いなる希望を抱いて

しかし、斗南藩へ着いた旧会津藩士は愕然としました。政府から伝えられた斗南藩3万石はまったくの嘘で、せいぜいが7千石というところでした。これは挙藩流罪ともいえる措置で、日本史上最低最悪の刑といってよいでしょう。


会津戦争を10歳という若さで経験した柴五郎は、藩子弟として終戦後猪苗代から東京へ移され、後にお家再興ため斗南藩へ行きました。

しかし、斗南での生活正に乞食の如く。風を仕切る障子もないような家で俵にくるまって厳冬を過ごしました。

あるとき、犬が食卓に並び久しぶりのご馳走となったのですが、味付けもなく塩のみで煮ていたため何日か後には不味く感じ、それが何日も続いたためついに肉を吐き出してしまったそうです。

しかしこのとき、五郎の父が

「武士の子たるを忘れたのか!会津の武士は餓死して死んだ、と薩長の下郎どもに笑われるはのちの世までの恥辱!ここは戦場なるぞ!会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ!」

と厳しく怒ったそうです。会津人にとって、斗南の地は戦場でした。


この飢えと寒さをしのぎお家再興を目指した旧会津藩でしたが、結局は政府の廃藩置県によりその夢は途絶えました。

多くのものがこの地を去り、あるものは帝都東京へ、あるものは故郷会津へと向かいました。



その後の会津武士道

松平容保
会津戦争の後、彼はずっと多くを語らなかったそうです。しかし、孝明天皇から戴いた御宸翰と御製は生涯肌身離さず持ち歩いたそうです。それは容保公が亡くなった時発見されました。そしてそれが公となり、会津は賊軍にあらずということが世に知らされることになったのです。

そして昭和3年、容保公の孫節子(勢津子)が秩父宮殿下とご成婚し、名実ともに逆賊の汚名は晴らされたのでした。

【松平容保】


池上四郎
鶴ヶ城籠城戦に12歳で参加した彼は、その後苦学し大阪府の警察部長から大阪市長に就任しました。大阪では大変有名な方だそうで、銅像も建てられました。大阪市長のとき関東大震災が起こったのですが、このとき大阪は救援物資をいち早く送り感謝されたそうです。会津の社倉米を思い出させるエピソードです。

彼のお孫さんに紀子(いとこ)という方がいまして、川島家に嫁ぎました。そのお孫さんが秋篠宮殿下とご成婚なされた紀子さまです。容保公の血を引く勢津子さまに続き、会津藩士の血が皇室に入ったのです。

そして、皇室待望の男子がこのお二人から生まれたということは、未来の天皇陛下になるかもしれません。会津人にとってこれほどめでたいことがあるでしょうか。

【池上四郎】


山川大蔵、健次郎兄弟
廃藩置県となって斗南藩がなくなった後、会津戦争の折日光田島口で対峙した谷干城の薦めで軍に入った山川大蔵は、西南の役では戊辰戦争の雪辱を晴らすために戦いました。ここでもまた彼は包囲された孤城に颯爽と入城する離れ業を行い、軍内部の評価を高くしました。

当時、会津人の出世は大佐までとされていたにも関わらず、山川浩(大蔵)は少将まで出世しました。山県有朋は大変立腹したようで、その後会津人の出世は少将まで、となりました。

その山川浩が会津の国辱を雪ぐべく「京都守護職始末」を執筆、しかし執筆途中に亡くなってしまうと弟の健次郎がその遺志を継ぎ出版にこぎつけました。健次郎はその後、東京・京都・九州の帝大の総長を歴任し、「白虎隊総長」と呼ばれました。

【山川大蔵】
【山川健次郎】


柴五郎
10歳にして会津戦争を体験し、東京から斗南へ渡り乞食のごとき貧しい生活を体験し、その後つてを辿って苦学し陸軍幼年学校へ。軍に入り中佐となって北京に赴いていたとき北清事変に遭遇、見事な指揮で籠城戦を助け世界から絶賛されました。

「コロネル柴」世界でのこの名声を軍も無視できず、ついに彼は陸軍大将の座に上り詰めました。軍の会津に対する差別がついに消えたのでした。

晩年、彼は会津戦争から西南の役までの苦労や無念を遺書として残し、石光真人の編集によって「ある明治人の記録」として出版されています。

明治、大正、昭和を生きた柴五郎は、大東亜戦争終結一ヵ月後に割腹自殺を図り、その年の暮れに亡くなりました。

石光氏はこれを自分の後輩たちが仕出かした不始末に耐えられなかった、と捉えたようですが、柴五郎の性格を考えるともう少し深いものがあったようです。

【柴五郎】

松江豊寿
明治6年生まれの豊寿は、板東捕虜収容所所長時代に第一次世界大戦におけるドイツ軍捕虜に対し人道的な対応をし、敵であっても愛国者であるとして扱いました。

「敵であっても祖国のために戦った」という彼の感覚は、会津の悲劇を教わって育ったためと思われます。当時軍内部では甘すぎるとの意見もあったようですが、少将にまで昇進することになっていったのです。

彼の活躍は、「バルトの楽園(がくえん)」という映画になっています。

【松江豊寿】


そのほか、山本八重子、山川捨松や秋月悌次郎など、数多くの会津人が明治以降を逞しく生き、人の生き方を指し示しました。


われわれの存在というものは、先祖から引き継いだ伝統や精神を次代に渡していかねばならないのではないかと強く感じさせられる、それが歴史を勉強する意味だと、彼らは言っているように思えてなりません。

【鶴ヶ城】

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