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会津戦史 慶応4年8月26日

8月26日(新暦10月11日)
前日占拠された小田山から激しい砲弾が鶴ヶ城に向かって撃ち込まれました。西軍の狙いは天守閣の破壊だったようです。砲弾は城内のいたるところに着弾し多くの人々が亡くなったそうです。

城を倒壊から救ったのは、江戸から来たとび職だそうです。そして火災が発生すると婦女子らは布などを湿らせ覆うなどかなり危険な消火作業を行ったそうです。タイミング悪く布を覆う瞬間に弾が炸裂して死亡した女性もいたそうです。

こうして城内の人々の活躍により鶴ヶ城は1ヶ月もの間、西軍の砲撃をしのいでいくのです。この間、容保と喜徳は黒金門に退避していました。黒金門は、本丸と帯曲輪を結ぶ鉄に覆われた門でそこで砲弾から身を守ったそうです。

一方、帰城命令を受けて田島から戻ってきた山川大蔵は大急ぎで退却してきてこの日会津入りしました。

しかし、すでに籠城戦となっており城は西軍によって包囲されており、小田山からも砲弾が撃ちこまれ続けていましたから、敵中を突破して城内に入城するのは至難の業となっていたわけです。

そこで、山川はある奇策を用いてさらりと入城に成功するのです。

その奇策とは、

なんと、隊の先頭を彼岸獅子に行かせ、太鼓を鳴らしながら行進したのです。彼岸獅子とは獅子の面をつけ太鼓を鳴らし五穀豊穣災厄除去を祈り踊るという会津の伝統行事です。

西軍はあっけに取られました。それが何なのか分からない。中にはあやしく思うものもおりましたがそれが敵なのかが分からないため攻撃も出来ない。
そんな中、城内にいる会津兵らにはそれが彼岸獅子だと分かるわけですから、これは間違いなく味方だと分かるわけです。

そして山川はその一瞬の隙にさっと城内に駆け込んでしまったのです!

この奇想天外な作戦で城中の兵は三千名に増え、防備は一層固くなりました。城内は大いに沸きあがったそうです。

とはいうものの、全軍に帰城命令が出ていたのですから当然のごとく遠くにいる敵も徐々に包囲網を狭めていくことになるのです。

そんな中、家老である西郷頼母が城外追放となりました。頼母は、京都守護職就任にも反対し会津戦争にも反対していました。指揮を執っていた白河城で西軍に完敗すると再び降伏を進言し謹慎処分になっていたのですが、籠城戦に際し再び呼び出されていました。しかし、この日は容保親子と家老全員に切腹を迫るという事態に及び、家老らが頼母を斬殺しようとしたのです。そこで容保公は頼母を城外追放として逃がしました。その後しばらく刺客が追ったそうです。


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