傲慢な人間になりたくないという気持ちが強すぎて傲慢な人間になっていたかもしれない

はろーえぶりわん。

ふだんnoteをアメブロのように使っている私ですが、noteみたいなnoteを書きたい! という欲求のもと、「傲慢さ」について、痛みながら、考えたり考えなかったりした過程を記しました。in2時間半待ちの耳鼻科の待合室


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私は昔から「傲慢な人間になりたくない」「我儘を言いたくない(我儘な人間になりたくない)」という気持ちが強く、その影響か(?)人と喧嘩や言い合いをしたことがないし、嫌なことをされても受け入れてしまうし、言いたいことを言えたことが無い。

昔は「人と喧嘩をしたことがないなんて、私はなんて平和な人間なのだろう!」と思っていたけれど、最近では「人と喧嘩をしたことがないのは欠陥なのではないか……」という気持ちが強まっている。何故かは後ほど。

まずは、私の「言えない」を説明するために具体例を出してみる。

遠征のホテル、5人一部屋。
お風呂の順番を決める時、最初に入りたくても言えずに譲ってしまう。「最初に入ってもいい?」が聞けない。この時の私の頭の中は「○○ちゃんも○○ちゃんも早く入りたいだろうし、私が先に入ったら嫌な思いをさせてしまうな……」といった“嫌われたくない思想”で溢れている。

たかがお風呂の順番で人を嫌いになるような人たちではないと分かってはいるけれど、それでも、それがきっかけで嫌な思いをさせたり、したりするのが怖いのだ。

私は傲慢な人間になりたくないのではなく、傲慢な人間だと思われたくないのだと思う。地球上の全員に好かれる人間など存在しないけれど、嫌われる可能性を少しでも減らしたい。何故なら傷つきたくないから。この調子で日々を過ごしていて、自分の理想とする「傲慢では無い人間」「我儘ではない人間」「嫌われない人間」になれているかというと、そうでも無いと気づいたのが最近のこと。

「言わない」を続けると不満が溜まる。相手のことがどれだけ好きでも、1mmも嫌っていなくても、溜まる。それがどこかで相手に伝わる瞬間が来る。こちらが伝える気がなくても、無意識に伝わってしまう。そうしたことが起きると、相手は悲しんだり、傷ついたり、こちらに不信感や嫌悪の感情を抱いてもおかしくない。自分は優しさのつもり(というか、嫌われたくないという恐怖)で発言を避けていたとしても、そのせいで自らが望む結果とは真逆の方向にハンドルを切っている可能性があるのだ。

そこで「言う」に挑戦するとどうなるかというと、不慣れな行動に自らの心が耐えきれず、真逆の発言をしてしまったり、相手を傷つけるような濁し方をしてしまったりする。あれおかしい。人を傷つけたくない! と思って生きてきたはずなのに、あれおかしい。2次元の世界ならツンデレで済むが、現実世界ではただの最悪人間である。そうした態度が「傲慢な人間」「我儘な人間」だと思われるきっかけになってもおかしくない。こうして私は自らで自らの居場所を破壊していくのだ。

その結果、自分は最悪な人間だ、生きている価値がない、というところまで飛躍する。無駄に感受性が強すぎる。というか、“傷つき”へのアンテナが敏感すぎる。何か起こる度に自宅のベッドにうずくまる。あまりよくない事が起きた時、真相の確認ができない。そして自分が傷つくような方向に解釈をする。自分は嫌われているに違いない、自分が悪いと思い込む。失敗をしたり怒られたり、そういった場面で相手に謝罪した後も、何日もうずくまる。一度起こったことは変えられないし、謝罪は物事を解決しない。完璧に生きたいという思いが強すぎるあまり、一度失敗したらやり直せないと思っている。

ダイエットをしていて、たった1日食べすぎてしまっただけで全てが嫌になりダイエットそのものをやめてしまう、という経験をしたことがある人は多いと思う。私はそれを人生単位で行っている。完璧主義で、間違いに敏感で、100%の心で物事を受け入れることができていない。

私は世の中の誰にも、というか自分自身にも心を開いていない。

「向き合う」というのは辛く苦しい行為だと思う。今まで、私は私自身と向き合ってきたつもりでいたけれど、向き合っているように見えて実は“逃避”の方向に思考を進めていたらしい。そして今まではその事実さえ無いものにしようとしていた。見えないフリ。そうしていたら、こんなにも自己と向き合って頑張っているのに何故か何も好転しない! 私は最悪人間だ! という思考が加速する。負のループである。

傲慢な人間になりたくないのなら、そのために考え、向き合い、評価することが大切だと思う。が、その道筋を誤っていてはいつまでも最悪人間のままである。

分かりやすく言葉にすることは難しいし、このnoteは限りなく主観的な構造になっているので、読み手に何がどのように伝わっているのかは分からないが、こうした思いを抱える人は多いと思う。苦しまないための行動で苦しむ、なりたくない自分になっている、そういったことに気づかぬまま苦しんでいる人もいる。

この世に解決策は無い。失敗を繰り返しながら正解を見つけるしかない。時には正解が存在しない場合もある。我々完璧主義人間には酷な現実である。

傷つきたくないから、傲慢な人間になりたくないと思っていたけれど、そうならないためには傷つくことも必要なのかもしれない。軽く絶望したけれど、この絶望を絶望のまま引きずるか、若しくは、というところで今後の人生が変わっていくと思う。

そして、そういった思考の癖は100%自らに原因があるわけではなく、各個人の生育環境や過去の経験に依るものが多かったりするので、必要以上に自分を責めるのはやめた方がいい。かといって、環境のせいにしすぎていてはいつまでも最悪人間のままである。これも酷な現実である。この世は酷。この世は酷だが、私はあなたを見捨てる気は無い。とりあえず今は、誰とでもきちんとした対話を重ねていけるようになりたいと思っている。


理想、目標、願い、祈り、など↓

全人類と平和な関係を築きたい。私は誰のことも嫌うつもりがない。
私やあなたの世界が平和になることを祈っている。
誰しもにやさしい朝が来ることを願ってやまない。


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