近所に廃線があった話(近鉄小房線)①

最近、電車に乗らない。外出自粛が染み付いてしまったのか只の出不精なのか分からないが、月一ぐらいしか乗っていない気がする。
そして例のごとく家にいたとき、何の脈絡もなく思ったことがある。

近鉄の路線って何か変だな?

・大阪線と併走してる部分が多い(そしてあんまり乗らない)南大阪線
・その南大阪線と繋がってるのに、京都線とは繋がってない吉野線
・何故か乗り場が遠い田原本線

調べてみたところ、これは近鉄の歴史が関係しているらしい。
近鉄は日本最長の私鉄だが、それはM&Aの産物だった。

近鉄の歴史

近鉄の前身は大阪電気軌道(大軌)という。
最初に大阪上本町ー奈良(現奈良線)を開業し、主な乗客は大阪からの生駒山参拝者だった。次いで西大寺ー橿原神宮前(現橿原線)を開業。宗教色が濃いですね。
そして、大阪から橿原神宮へのショートカットのため、上本町ー桜井(現大阪線)を開業する。
ここで大阪鉄道(大鉄)との競合が生じた。大阪鉄道は現在の南大阪線に当たり、吉野への進出を巡って大軌と争った。当時、吉野には吉野鉄道(吉鉄)が既に開業しており、吉鉄に双方が接続を図った。大軌は橿原神宮前(現在のものとは別)で、大鉄は久米寺(現在の橿原神宮前)で接続した。
しかし、大軌と吉鉄の接続には1つ問題があった。軌間が違っていたのだ。大軌が標準軌(1453mm)なのに対し、大鉄と吉鉄は狭軌(1067mm)を採用していた。
その後、大軌が吉鉄、大鉄を買収することとなったが、軌間は変更されなかった。その結果が現在の橿原神宮前の奇妙な接続だったのだ。

大軌は伊勢、名古屋へ進出するが、そこでもM&Aを行っている。まず、桜井から名張への延伸を計画した際、既に大和鉄道が既にその路線の敷設免許を取得しており、免許取得が困難であったため、大和鉄道を買収した。
大和鉄道は現田原本線となっており、これまた狭軌だったが、現在は標準軌になっている。この経緯から田原本線は近鉄で唯一、他路線から孤立している。
こうして、桜井ー名張ー伊勢中川-宇治山田を開業した参宮急行電鉄(参急、大軌傘下)は、地元企業、伊勢電気鉄道(伊勢電)と競合する。伊勢電気鉄道は桑名ー大神宮前(宇治山田あたり)で営業しており、現在は江戸橋ー桑名が名古屋線の一部として残っている。(養老鉄道も伊勢電傘下だった。)そして、大軌が名古屋進出のため設立した関西急行電鉄(関急電)によって桑名から名古屋への延伸が果たされた。
伊勢電もまた狭軌だったので名古屋線も狭軌だったが、伊勢湾台風からの復旧と合わせて改軌された。

戦中に合併が推し進められ、参急が関急電、養老電鉄を合併した後、大軌と参急が合併し、関西急行鉄道(関急)となり、南海鉄道とも合併したことで近畿日本鉄道(近鉄)が成立した。戦後、南海は離脱し、現在に至る。

小房線

前置きが長くなったが、廃線の話をしよう。廃線の名前は小房線(おうさせん)という。
区間は畝傍ー橿原神宮駅(現橿原神宮前)で駅は畝傍・小房・畝傍御陵前・橿原神宮前の4つ。

小房線はもともと吉野鉄道の一部で、吉野の木材を省線(国鉄の前身)畝傍まで運ぶ役割を担っていた。なぜ、この区間が小房線として分離し、そして廃線となったのか。
ここまでで、橿原神宮前辺りの駅が色々変わっていることにお気付きだと思うが、これには国策が関係している。皇紀2600年(1940年、ゼロ戦の年ですね)に合わせて橿原神宮の拡張が行われることとなり、鉄道も整理された。
それまで、橿原神宮前は現在の橿原神宮第1鳥居前辺りにあったが、この時廃止となり、久米寺に集約されて橿原神宮駅(現橿原神宮前)となった。(ちなみに、「駅」まで含めて駅名なので橿原神宮駅駅となるらしい)
この頃には大鉄(現南大阪線)と吉鉄(現吉野線)の直通運転が開始されており、そちらが旅客輸送のメインとなっていたので、橿原神宮前ー畝傍は支線として扱われることとなり、小房線とされた。同時に小房線と橿原線の駅として畝傍御陵前が設置されている。
この整理によって橿原線との併走区間が多くを占めるようになり、小房線は1952年には廃止されることとなる。

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