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世界に鏡は二つ(『アナと雪の女王2』感想)

*本編(1・2)のネタバレや翻案となったアンデルセン童話『雪の女王』の内容前提の不親切な書き方をしていますのでご留意ください。

はじめに

今回は、下記の記事を拝読した結果として思い至った事について書いておこうかと思います。
https://ikyosuke.hatenablog.com/entry/2019/11/27/041804

前回かなり色眼鏡に満ちた感想をこしらえておいてなんですが、やはり観察眼と論理的な思考を持った方の記事は読んでいて気持ちが良いですね。

もう一件同じ方の記事ですが、こちらも「2」のアートブックで触れられていたサーミとの協力関係の経緯などがソースごと纏められていますので、是非お勧めさせて頂きます。(もっとも私の文章を読まれるような方は、先にこういった記事を目にしている可能性が高いと思われます。)

https://ikyosuke.hatenablog.com/entry/2019/11/24/024937

エルサと鏡

さて本題ですが、2本編を読み解く事に関して、リンクを貼った最初の記事中にはそうか!と納得すると同時に衝撃を受けた箇所がありました。
要約すると「エルサを呼ぶ謎の声は、そのまま自身の答えを求めるエルサ自身の心が反映されたものである(あるいはその一部)」という分析の手掛かりとして、本編中にはエルサが「鏡」に映るカットが印象的に登場するという点です。
鏡という概念は前作、また下敷きとなった童話『雪の女王』でも重要ワードですが、今作では先の記事に出会うまで気付いていませんでした...。

謎の声がエルサの内面とどう関わっているかについては丸ごと受け売りにしかならないので置いておきます。
実はこの事象に対して、「2でエルサに結び付いている『鏡』のインスピレーション元とは、1の鏡と別物ではないだろうか」という考えがよぎったので、そちらについて掘り下げて行こうと思います。

1作目と悪魔の鏡

冒頭の記事中にもリンクがありますが、前作公開時に有名になったこちらの記事では最後にジェニファー・リー監督のインタビューを紹介しています。

http://rednotebook.blog.shinobi.jp/ディズニー/『アナと雪の女王』ハンス王子の解釈

Frozenスタッフは『雪の女王』で冒頭に登場する「悪魔の鏡」にインスピレーションを受けた結果、ハンスというキャラクターを生み出しました。
前回の自分の記事ではなるべく2に纏わる感想に留めようとハンスについての項目を削りましたが、今となっては1のみならず2と『雪の女王』の関わりを考えるのに大事な存在でもあった訳です。
ついでにハンスは原作寄りのマインドから見ると、その性質を露呈させるまでの段階では『雪の女王』における「カイと間違えられる王子」のガワを用いているようにも見えます(ここはノーソース)。
カラスの勘違いで、とある城にカイがいるのではとゲルダが会いに行く場面があるのですが、ここには雰囲気だけカイに似ている婿入り王子が登場します。この王子は王女共々親切な人物ですが、「アナを真実の愛から遠ざけ混乱させる」悪役のカバーとしてはかなり妥当なのではないでしょうか。

そして、Frozen・アナ雪世界には『雪の女王』の冒頭で鏡を作ったという奢れる悪魔(英語版ではtroll、demon、hobgoblinとも)の存在はありません。知恵を授けるラップランドの女・フィンランドの女らの要素と合体した...と思われる優しきトロールたちがいるのみです(パビーの見せる忌避すべきビジョン→エルサ孤立の流れはやや原作の冒頭を汲んでいるのでは無いか?と思った事もありましたが)。
ともあれ1ではエルサが和解すべき家族であった為、騒動の発端は謎の力を持つ雪の女王ではなく人身を惑わす「悪魔の鏡」に集約され、その性質から姉妹を見捨てたハンスが報いを受けました。雪の女王でないなら元凶の悪魔の鏡にタイマン張るぜ、というアレンジは納得です。
では2はというと、鏡が出てくるのは前述した通りですが、それが示すものは全く異なっていました。

2作目と理性の鏡

他の人には聞こえない「善い人」の声を追い、裸足で極寒の海を制したエルサは、ついに自分だけが持つ魔法の源に辿り着きます。
エルサの力に呼応するアートハラン。映し出されるイドゥナとアレンデールの記憶。エルサ個人には知りえなかった過去までもが氷河の内部に再現されます。
この領域こそが、「エルサの追う謎の声=鏡写しのエルサの願い」を内包した第五の精霊の力の到達点でした。
鏡というキーアイテムを通して示された自身の内面との対話や、過去の記憶を映し出す力こそが、「アートハランという魔法の鏡」に辿り着くまでの道程だったのです。

この仮説に基づくと、着想元として相応しいであろう描写が『雪の女王』には存在します。

2は1よりもロードムービー、というのは前回の記事で書きましたが、ベースとなった童話『雪の女王』は、まさにおとぎ話らしい道程と現実の地名が入り交じる長い旅の話です。主人公のゲルダは雪の女王に付いて行方をくらませた幼馴染のカイを探して、北欧の大きな街から川を渡り国を超え時にトナカイに乗り、裸足で雪の女王の居城まで辿り着きます。
雪の女王がいるのはノルウェーの最北端地域とも、スヴァールバル諸島のスピッツベルゲン島とも書かれていますが、そこには立派な城があり、広間はオーロラに照らされています。
ゲルダはそこでカイを見つけるのですが、広間の景観としてこんな描写があります。

このはてしなく大きながらんとした雪の広間のまん中に、なん千万という数のかけらにわれてこおった、みずうみがありました。われたかけらは、ひとつひとつおなじ形をして、これがあつまって、りっぱな美術品になっていました。このみずうみのまん中に、お城にいるとき、雪の女王はすわっていました。そしてじぶんは理性の鏡のなかにすわっているのだ、この鏡ほどのものは、世界中さがしてもない、といっていました。
*青空文庫より
底本:「楠山正雄訳 雪の女王 七つのお話でできているおとぎ物語(1955年 同和春秋社)

この下りから、エルサに対応しているアートハラン=鏡の着想の源になったのは、雪の女王の居城にあるという理性の鏡(凍った湖)なのでは...?という推測に至ったのでした。

この湖はアートハランのように特別な力があるかと言うと、人間界に様々な混乱をもたらす悪魔の鏡に比べて具体的には示されません。
作中における雪の女王の心理というのが謎めいているために、カイの中にある「悪魔の鏡の欠片」とこの広間にある「氷の湖の欠片」が使い分けられていながら、著者があえて理性の鏡と呼ばせた事についても各人で読み解きが別れる所だと思います。
後年の映画やアニメでは雪の女王が持っているのがそもそも悪魔の鏡に相当するものであったり、悪魔の鏡を手にした事で女王が野心を抱くようなアレンジもありますが、原作を読む分には、ひとまず悪魔の鏡とこの湖が同じものとは言えないかな、という程の情報しかありません。

ただ作中では、雪の女王がカイに「この湖の氷片で『永遠』という言葉を作れたならカイは自分の手を離れて自由になれるし、世界の全部と新しいスケート靴もやる」と言い残します。
悪魔の鏡の欠片によって心が歪んだカイには作る事ができませんでしたが、後にゲルダが凍りついたカイを救い出すと、その場に散らばっていた氷の板は一緒に喜んで踊りだし、ひとりでに倒れて「永遠」を形作ります。
この有名なクライマックスについてですが、ゲルダという少女は非力に見えて、周りの生き物の心を動かす純真な心を持つ事がなによりの力であると作中で言及されています。その心でカイを温度のある人間へと戻した事が、雪の女王と同じ自然の側からも認められるという台詞無き演出である……と私は解釈しています。

つまり雪の女王が「理性の鏡」と呼ぶ物の見せ場は、冬の化身である女王を武力で打ち負かさず、人が人を想う心によって奇跡が起きた事を見届け、祝福する場面だったのです。
こういった意味を見出すと、2で描かれた第五の精霊の力がエルサに生じた経緯や精霊たちの役割とも重なるのではないでしょうか。
一国で繰り広げられる王族たちの物語にアレンジされて、エルサ個人が雪の女王としての役割を担っていた1から、舞台が広がった事で自然を司る力の意義が大きくなった2は、また別の面で『雪の女王』の構造を受け継いでいると言えるのです。

命と命の架け橋

最後に、2の幕引きに関する余談で締めさせて頂きます。

『雪の女王』が雪の女王を追いかけた少年を追う少女の話なら、『アナ雪2』は謎の声を追うエルサを追うアナ&オラフを追うクリストフの話でした。

アートハランしか語らない記憶、恐らくそれと対峙する為に力を授かったエルサは奥底で凍りついてしまいます。絶望の淵にありながら、アレンデールとノーサルドラをあるべき形に戻す決心をするアナ。彼女の信念がマティアスの心や長年止まっていた歴史を動かし(『Some Thing Never Change』ではエルサが「I can't freeze this moment(サントラ対訳:この瞬間を凍らせるのは無理だけど)」と歌います。エルサの力でも解消しない概念はアナの領分です)、国とオラフも救えたエルサは己の繋ぐべき地を見つけます。
クリストフはアナが気持ちを伝える間も無く邁進していく事で自己嫌悪に陥りますが、彼女の窮地に追いつき改めて自身の愛情を誓います。
みんなの心が再び一つになるも、アナが大人と言える年齢に成長し、姉妹の生きる場所が分かたれます。しかし家族を想いあう心はいつも共に在るのでした。

1で家族というものに、環境や資質による心の距離の断絶とその修復を提示したこの作品は、2でも同様に、能力あるいは民族や使命が違う生物であっても互いに歩み寄る事ができるし物理的な距離は関係無い、という結論に辿り着きました。

ディズニー・ピクサーの近年における傾向を取り入れた結果、現代的なテーマに着地したと十分に言えるのですが、これが観ていて強引かと言うとそうでもなく、もちろんアナ雪という独立したコンテンツとして様々な見解があると思いますが(クリストフの素性を掘り下げる機運が閉ざされたのは少し惜しいですね)、この映画に『雪の女王』の名残を見つけてはぬか喜びしている身として何だか非常に納得できてしまう部分がありました。

一つはエルサの存在、姉妹の繋ぐ架け橋が、人間と自然の精霊の程良い距離感に着地した点です。『雪の女王』における雪の女王が、自分を軽く見た子供に対しては脅かしに来る一方で、人々の作物のため雪を降らせに赴いたり、極寒の大地で知恵を用いて暮らす人や、人と共に暮らす動植物達がいたりといったおとぎ話ならではの渾然とした要素が自分では結構好きなので、『アナ雪』で現実の地域ともリンクした自然に寄り添う民であったり、人間と決して人語を発しない人以外の生物の関係に焦点が当たったのはしっくり来ました。

もう一つは変わる関係性についてです。
『雪の女王』のラスト、無事に帰路へと着いたゲルダとカイは、元の街で懐かしい家に入るその時、自分たちがもう大人になっている事に気付きます。けれど二人が大事にしている賛美歌の一節のように、子供の心を持ち合わせたままでした。
……この帰り道ですが、二人は段々と春の景色が見えてくる道すがら、今までお世話になった人や動物と出会い、見送ってもらいながら進みます。
しかし全員ではありません。山賊の娘は実家が嫌になり新天地を探す途上でゲルダと再会しましたが、彼女が話す事には王子と王女は外国へ旅立ち、そのお抱えであるカラス夫妻は夫の方が亡くなったというのです。
山賊の娘の言葉にどれ程の信憑性があるかはわかりませんが、彼女にせがまれてお返しにゲルダが今までの事を話し、もしゲルダとカイの故郷に立ち寄る事があれば尋ねると約束を交わして別れます。

この中編と言える長さの物語で、最後にオールスターが出てくると思いきや巻きに入り、しかし揺るぎない友情も示される筋書き。湿っぽい話題のはずなのに山賊の娘のカラッとした明るさ。そして冬が終わったと思えば家に着く頃には夏になっているという、めまぐるしくも色鮮やかな情景。
自分がアニメーション作品を作るとしたら、どこでEDのイントロを流し始めるか悩むレベルです。

再会と別れ、あるいは季節が移ろう生と死の循環にあっても変わらない心……このテーマは正直今書きながら言葉になったものですが、そういったH.C.アンデルセンの美学が1800年代に『雪の女王』というメルヘンの形で放たれていたからこそ、とても現代的で身近な事を扱っているような『アナ雪2』の終幕にも親しみを見出してしまうのでした。

初見で驚いたイドゥナが「デンマークの童話」を読むアグナルに話しかける場面も、きっと一つの架け橋の形であったのです。

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